2020年12月29日火曜日

【20C_s6 1985(s60)年】

【20th Century Chronicle 1985(s60)年】


◎山一抗争

*1985.1.26/ 大阪府吹田市で、山口組の竹中正久組長ら最高幹部3人が、一和会系の組員に短銃で撃たれ、死亡する。(山一抗争勃発)


 「山口組」3代目田岡組長が亡くなり、後継決定に際して3代目の妻田岡フミ子の意向により、竹中正久が4代目組長に就任する。山口組組長代行を務めていた山本広の山広派は、これに反発して山口組を脱退して「一和会」を結成、いわゆる「山一抗争」へと発展することとなる。

 当初こそ一和会が数的優位と思われたが、武闘派で名を馳せた4代目竹中の怒濤の切り崩しで、一和会は徐々に弱体化し劣勢に立たされてゆく。逆転を狙った一和会は竹中暗殺を計画、少数幹部とともに竹中が愛人のマンションに立ち寄るところを待ち伏せ、竹中組長と若頭というトップ2人を射殺した。かくして2年あまりに及ぶ、日本最大暴力組織の内紛「山一抗争」が勃発する。


 それに対する山口組側からの報復は熾烈をきわめ、一和会は追い詰められ、さらには山本広会長宅に山口組会系組員が大型ダンプカーで突っ込んだりするありさまだった。やがて、稲川会や会津小鉄会の仲裁もあり、山口組側から抗争集結宣言が出されて収束した。抗争を通じて300件を超える大小抗争事件が発生、一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人、警察官・市民に負傷者4人を出したとされ、抗争の直接の逮捕者は560人に及んだ。

 抗争終結後も一和会への締め付けは厳しく、構成員数200人にまで衰退した結果、山本広会長は引退し一和会の解散を表明した。竹中組長射殺以降、各地の暴力団の武装化が進んだとされるが、山一抗争がのちの暴対法制定のきっかけにもなったとされる。


◎豊田商事会長刺殺事件

*1985.6.18/ 詐欺商法で社会問題化していた豊田商事の永野一男会長が、自宅マンションで、報道陣の目前で2人の男に刺殺される。 


 「豊田商事」は、悪徳商法によって被害総額は2,000億円の巨大詐欺事件をひき起こし、マスコミに取り上げられ社会的に注目されていた。この日、大阪市北区の永野一男豊田商事会長の自宅マンションの前には、逮捕されるとの情報を聞きつけてマスコミが集まっていた。そこへ自称右翼の男2人が会長の部屋の前に姿を現し、窓の格子を蹴破り窓ガラスを破って侵入、永野会長の全身13ヵ所を刺し、永野は出血多量により死亡する。

 当時、部屋のドアの前などには大勢のマスコミがいたが、誰も止めようとはしなかった。犯人の侵入の様子や血まみれの永野会長が運ばれる様子は、テレビ各局のニュースで中継された。その時の生々しい報道は、豊田商事の莫大な詐欺事件をしばし忘れさせるほどだった。


 豊田商事の悪徳商法は、現物まがい商法(ペーパー商法)と呼ばれ、金を購入する契約を結び契約証券を渡すが、現物は会社が預かるという形式を取った。つまり購入者は、紙切れ一枚と引き換えに多額の代金を支払うことになる。また、主に独居老人を狙ったり、強引な勧誘のための社員教育マニュアルやビデオなどもそろえていた。

 さらに詐欺で集めた資金で、テレビCMを多数放映したり主催イベントで芸能人を起用したりしてイメージを浸透させた。「豊田商事」という社名も、まったく関係のない巨大自動車会社との関係をにおわせたパクリ商法で、当時は大手電機メーカーの名前をかぶせたサラ金などにも多く見られた手法であった。


 事件後には、豊田商事および永野会長の資産・資金はほとんど残されておらず、管財人チームが徹底した回収を行ったが、当然、満足な被害者救済が出来るわけもなかった。犯人二人の殺人動機も解明されず、温情判決とも取れる懲役10年以下の判決で終った。さらに、現場に居合わせた報道陣が凶行阻止の動きをせず、ひたすら報道に徹したこと、その報道姿勢にも批判が集まった。


◎日本航空123便墜落事故

*1985.8.12/ 羽田発大阪行きの日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落する。(日航ジャンボ機墜落事故)


 いまさら触れるまでもない悲惨な大事故だが、ネットで画像検索をかけると生々しい遺体写真などが多く出てきた。それが趣旨ではないのであえて掲載はしない。しかし、それだけ無残な事故であったのも事実である。

 1985(s60)年8月12日、ちょうど盆休暇にさしかかる日に大事故は起った。ほぼ満席の羽田発伊丹行日本航空123便ボーイング747(ジャンボジェット)が、30分以上も機体コントロールを失ったまま迷走飛行、群馬県の通称「御巣鷹の尾根」に墜落した航空事故である。乗員乗客の死亡者数は520名、生存者は4名のみであり、単独機の航空事故で世界最大の事故となった。


 事故の直接原因は、以前に起した同機の「しりもち事故」の修理不備と結論された。修理時に機体後部の圧力隔壁の固定に不備があったため、室内圧で吹き飛ばされ、方向舵を含む垂直尾翼など機体の後部が破壊され、油圧系統もほぼ壊滅、ほぼ操縦不能の状態に陥った。自動車で例えれば、ハンドルもブレーキもなしで高速道路を突っ走るような状況だった。

 機体は迷走するとともに不安定な上昇下降を繰り返し、後日ダッチロールなる言葉がつぶやかれ、流行語にもなった。30分以上にもわたる危機的な飛行中の様子は、操縦室とかわされた無線交信記録や、回収されたボイスレコーダー、わずかな生存者、さらに犠牲者がメモした遺書記録などからうかがわれる。半時間にもわたって、空中で木の葉のように揺られ続けた乗客らの不安と恐怖は、想像を絶するものであった。


◎ロス疑惑 疑惑の銃弾事件

*1985.9.11/ ロス疑惑の殺人未遂容疑者 三浦和義が逮捕される。


 1984(s59)年に「疑惑の銃弾」というタイトルの記事が「週刊文春」に掲載された。この一片の記事から、三浦和義という人物をとり巻く事態は一転する。1981(s56)年米国ロサンゼルスで、三浦の当時の妻が何者かに銃撃されて意識不明、自らも足を撃たれて負傷するという事件が起り、マスコミには「悲劇の夫」として登場した。やがて妻は死亡、この事件は終息したと思われた。

 「週刊文春」では、妻に多額の保険金をかけていたことや、三浦の供述にいくつかの不信な点が見られるなどから、保険金目当てに仕組んだ事件ではないかとされ、それ以降、国内のマスメディアは「三浦犯人説」の報道で過熱化した。いまだ警察は具体的な行動を見せていないにもかかわらず、このときの報道陣は三浦の自宅前に貼りつき、三浦の自宅に不法侵入するメディアも出るほど過熱したものだった。


 三浦自身もテレビなどのメディアに積極的に露出し、その特異なキャラクターも加わりますます劇場型報道となるなか、行方不明とされていた三浦経営の会社 フルハムロードの元取締役だった女性が、失踪後ロサンゼルス郊外で遺体として発見されていた事実が判明し、三浦が本人口座から400万円を引き出していたことも判明した。

 過剰報道騒動の最中の1985年、銃撃事件の4ヵ月前に起こった三浦夫人殴打事件を、愛人の元ポルノ女優が三浦に頼まれ実行したと証言したため、殺人未遂容疑で逮捕され、さらに銃撃事件での殺人と詐欺で再逮捕されることになる。殴打事件では懲役6年の有罪が確定したが、銃撃事件の裁判では、検察側の実行犯証明がネックとなり最終的に無罪となる。この事件に絡み三浦が拘置所や刑務所にいたのは13年間にものぼる。そして三浦は、この間および釈放後にも、500件以上もマスメディアを名誉毀損などで訴え8割の勝訴を得たという。


 この「三浦和義」という人物像をつかむために、その経歴をたどってみると、異様な人物像が浮かび上がるってくる。雑貨輸入会社「フルハムロード」を設立までの期間の三浦の経歴は、どこにでもいた普通の不良少年の像でしかない。しかし、それに本人の語ったエピソードが付加されると、まったく異なった三浦像が立ち上がってくる。まさしくフィクションの天才三浦和義を髣髴させる。この才能をある方向に伸ばしていれば、実業家、随筆家、タレント、俳優という自称職業に、小説家というのが加わってもおかしくはない。

 一方で、これだけ自分のことを飾ってしまえるところに、不快さえ感じさせるのも事実である。マスメディアに登場し、滔々としゃべりまくる氏の姿に、同様の不快を感じた視聴者も多いはず、このあたりが三浦報道が大きな話題を集めた一因であろうかと思われる。単なる嘘つき・ほら吹き・虚言癖・性格異常と言ってしまうのは簡単だが、なんとも異常な人物であったことは確かである。


 最終的に無罪を勝ち取り、名誉毀損などの民事訴訟でも連勝していた三浦だが、その後不可解なほど小額の万引き事件を2度も起している。このあたりも三浦の人格の不可解さを物語るものであった。その後、三浦関連のニュースも聞かれなくなったとき、2008年突然に、旅行中にアメリカ自治領のサイパン島で逮捕される。これは三浦自身にも青天の霹靂であっただろう。

 三浦側は日本で無罪になった銃撃事件で、「一事不再理」の原則を盾に不当を訴えたが、米の裁判所は「殺人の共謀罪」については日本で裁かれていないとして有効とした。その裁定により、三浦はサイパンからロサンゼルス市警に身柄移送されたが、その同日中に首吊り自殺したと発表された。またロス市警は後日、「元取締役女性殺人」での立件も予定していたと公表した。三浦和義は、最後まで謎を残したままこの世を去った。


◎阪神タイガース 21年ぶりのリーグ優勝

*1985.10.16/ 阪神タイガースが、21年ぶりにプロ野球セ・リーグ優勝を果たす。


 1985(s60)年の阪神タイガースを語るには、やはり伝説のバックスクリーン3連発から始めるしかない。開幕からまだ5戦目の対読売巨人軍戦、1-3の7回裏、二死一・二塁で三番打者のバースのバックスクリーン3ラン本塁打で逆転した。すると続く掛布雅之、さらに岡田彰布が同様に狙い済ましたようにバックスクリーンに打ち込んだ。


 前年まで2年続けて4位、吉田義男監督が2度目の采配となった年で、決して優勝候補に上げられていたわけではない。しかし先の3連発で弾みがついたのか、あれよあれよと夏場まで首位を快走した。ところが、8月12日に発生した日本航空ジャンボ機墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり、しかもこの同じ事故機の直前フライト(福岡発羽田行)にタイガース・ナインたちも搭乗していたため、選手たちは大きな衝撃を受け、大型連敗を喫して一時は首位から陥落した。

 それでも、強力打線に加えて中西清起・福間納・山本和行らのリリーフ投手陣の奮起もあり、21年ぶりのリーグ優勝が決定した。その勢いのまま、西武との日本シリーズも4勝2敗で勝利、2リーグ制になってから初の日本一を達成した。


 21年ぶりの優勝には、さらに落ちがある。10月16日リーグ優勝が決まった際、タイガースファンは狂喜乱舞し、大阪ミナミの道頓堀川に集まり次々に飛び込んだ。真弓似だの、岡田似だの、掛布似だのと自称他称のファンも、さらに飛び込む。だが肝心のバースはどこだ。かくして、ケンタッキーフライドチキン道頓堀店のカーネル・サンダースの像を見つけ出し、そして胴上げの末に道頓堀川に投げ込んだのだった。

 その後、バラエティ番組「探偵!ナイトスクープ」で「カーネル・サンダースを救え!」というテーマが取り上げられた。そして番組の調査団が潜水調査するも見つからず、「カーネル・サンダースの呪い」は都市伝説化して広まった。阪神タイガースはそれ以来低迷を続け、18年後の2003年、やっとリーグ優勝を果たした。2009年には数百メートル下流からサンダース像が見つかり、修復された。これでやっと呪いは解けたかと思われたが、今になっても日本シリーズ優勝はかなえられていない。


(この年の出来事)

*1985.3.16/ 科学万博「つくば'85」が開催される。(~9.16)

*1985.7.10/ 京都市が古都保存協力税を実施、これに反対する金閣寺などが拝観停止で対抗ストライキ。

*1985.9.22/ 米・英・仏・日・西独の5ヵ国蔵相会議で、ドル高修正のため、為替市場への協調介入強化が合意され(プラザ合意)、円高時代に入る。


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