【20th Century Chronicle 1980(s55)年】
*1980.5.16/ 衆議院本会議で、社会党提出の大平内閣不信任案が可決する。大平首相は衆議院解散(ハプニング解散)を選択し、衆参同日選挙となる。
*1980.6.12/ 大平正芳首相(70)が、急性心不全で急死する。
*1980.6.22/ 初の衆参同日選挙が行われる。首相急死に同情票が集まり、自民が圧勝する。
1980年5月16日、社会党が提出した大平内閣不信任案が、自民党内反主流派の造反で可決されてしまい、大平首相は衆議院解散をえらび、解散総選挙となった。自民党内では、前年末の第2次大平内閣の成立をめぐって、四十日抗争と呼ばれる激しい党内抗争があり、事実上分裂に近い状態だった。
そこへ、浜田幸一議員のラスベガス賭博スキャンダルなどが判明し、野党が国会で激しい追及をしている最中での不信任案提出で、それに便乗するように自民党の反主流派議員らが採決を欠席、そのため野党さえ予想外の不信任案可決という結果になった。大平首相は、不信任の理由は承認できないとして衆議院の解散を選んだ。(ハプニング解散)
解散総選挙は、予定されていた参議院通常選挙と同日の6月22日と決定され、史上初の衆参同日選挙となった。自民党はかろうじて分裂選挙さけたが、大平は厳しい状況で選挙戦を闘うことになった。5月30日、先に公示された参議院議員選挙のため、大平は新宿での街頭演説で第一声を上げたが、周囲は大平の顔色に心配を感じていたという。
大平はそのまま午後の演説をこなしたが、帰宅後に身体の不調を訴え深夜に緊急入院した。大平は年明け以降ほとんど休養なく、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務に、70歳という高齢に、従来から不安を抱えていた心臓の負担が重なり、肉体は限界に来ていたと思われる。
サミットを控え退陣論も出るなかで、大平自身は出席するつもりでいて、一時は記者団の代表と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日容態が急変し夕刻に死去する。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。
現職総理の死去は、選挙戦の状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かい、有権者の多くも自民党候補に票を投じ、香典票と呼ばれた一部同情票も自民党有利に働いたとされる。
◎韓国 光州事件
*1980.5.21/ 戒厳令下の韓国光州市で、武装した学生・市民が全市を制圧する。27日、軍が市内に突入して鎮圧、多数の死者を出す。(光州事件)
朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが一時的におとずれたが、間もなく「粛軍クーデター(12・12軍事クーデター)」と呼ばれる軍部内の主導権争いで、全斗煥(チョン・ドゥファン)陸軍少将が実権を掌握する。軍事政権の復活を懸念して全国で民主化要求のデモが頻発するなか、全斗煥は戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三・金大中(両者とものち大統領)らを逮捕、騒動は全羅南道光州市(現 光州直轄市)に飛び火した。
学生や市民たちは鎮圧に派遣された戒厳軍と戦い、やがて全羅南道道庁を占領をするに至り、もはや内乱の様相を呈した。光州鎮圧に投入された総兵力数は2万5千人にも上り、市街戦の末、市民軍は徹底的に鎮圧された。光州事件の模様は徹底的に報道管制され、その実態はなかなか明らかにならなかったが、のちに設立された「5.18記念財団」によると、認定された死者は154人、行方不明者70人、負傷者1628人に上るという。
金大中は、光州市を含む全羅南道の出身で、当地域に地盤をもつ野党のリーダーであった。全羅道は、古代三国時代の百済、後三国時代の後百済が位置した地域で、それぞれ新羅、高麗の統一によって滅ぼされた歴史をもつ。一方、軍事政権を展開した朴正煕・全斗煥・盧泰愚らは、新羅・高麗が歴代支配した慶尚道の出身で、そちらに地盤を置いていた。
朴政権以来、慶尚道地域がインフラ整備・経済開発・官公庁人事などで優遇され、全羅道地域が冷遇され、経済的にも後発地域となった。つまり勝ち組に不満をつのらせた負け組の鬱憤の高まりが、その心理的な背景にあったと言える。その我らが地域のエース金大中が、逮捕され死刑に処せられかけていたのである。
◎新宿西口 バス放火事件
*1980.8.19/ 東京新宿駅西口で、中年の男がバスにガソリンをまいて放火。6人が焼死、14人が重軽傷を負う。
1980(s55)年8月19日21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナルで停車中のバスに、中年男が火のついた新聞紙とガソリンを流し込んだ。火は瞬時に燃え広がり、6人が死亡14人が重軽傷を負う惨事となった。犯人は38歳の現場作業員で、定住せず全国を転々としていたという。駅前広場近くの階段で酒を飲んでいたところ、追い出すような声をかけられて、かっとなって犯行に及んだという。
犯人は無期懲役が確定し刑務所に収監されたが、同房の受刑者からいじめを受けていたもようで、十数年後に首を吊って自殺、その報道は半年後になって小さく報じられただけだった。都心の真ん中で、見知らぬ人間の通り魔的行為によって一命を失った被害者にとって、なんとも形容しがたい無残な事件であった。そして犯人自身、何のために生れてきたのかと思わせるような無意味な人生であることか。
なお私事であるが、この6月に転勤してきて、西武新宿線沿線の所沢に住むことになったところだった。都心に出るときには必ず経由する場所であり、この日付からすれば盆休暇で帰省して戻ってきた直後ぐらいの時期、微妙なタイミングの事件であった。
◎イラン・イラク戦争
*1980.9.22/ イラン・イラク両国が国境地帯で交戦、全面戦争に発展する。(イラン・イラク戦争)
イランではこの前年、シーア派によるイスラム革命があり、親米近代化路線をとったパーレビー朝帝政が倒され、ホメイニの下で「イラン・イスラム共和国」が成立した。これはイスラム法に基づく一種の宗教独裁政治で、伝統的イスラム社会への回帰を目指したものである。
一方イラクは第2次大戦後、オスマントルコから分離独立したが不安定な政権が続き、1968年イラク・バース党がクーデターで政権を奪取、その後サダム・フセインが大統領に就いて、イラクで少数派のスンニ派を重用して強固な独裁制を樹立した。
1980年9月22日未明、イラク軍は、イランとイラクの国境を画定するアルジェ協定を一方的に破棄してイラン空軍基地を奇襲、翌日にはイラク地上軍は長大な国境線を越えてイランに侵攻した。革命直後の内政混乱で準備不足だったイランは苦戦を強いられた。もともと友好関係にあったソ連はイラクを支援、イスラム原理主義の拡大を恐れる欧米も、武器供与などでイラクを裏で支えた。周辺のアラブ諸国も、スンニ派世俗的王政の独裁政権が多く、古来からのアラブ・ペルシャ対立関係とともに、シーア派によるイラン革命の影響をおそれたためイラク側につく。
孤立無援のイランであったが、イスラム革命に燃える民衆の士気は強く、20万の義勇兵が前線に加わり抵抗を続けた。そこへ何故かイスラエルがイラン支援に乗り出した。アラブ諸国すべてを敵にまわして戦い続けているイスラエルは、敵の敵は味方とばかり、イスラムであっても非アラブのイランを支援し出した。さらに最も対イスラエル強硬派であったはずの、アサドのシリア、カダフィーのリビアが、それぞれの思惑からイランを支援、もはや誰が味方か敵か分らぬ戦況となった。
その後、戦線は一進一退で膠着し消耗戦になった上で、1988年になってやっと、国連安保理事会の停戦決議に基づいて停戦が成立した。翌年、イラン革命の父ホメイニ師が死去、1990年イラン・イラク両国は国交回復することになる。しかしすでにこの時、サダム・フセインのイラクは、隣国クウェートに侵攻しており、やがて「湾岸戦争」へと展開する。
両国相互の都市爆撃の応酬が続くなかの1985年3月17日、サダム・フセインは突如、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃すると宣言した。イラン在住の外国民間人たちは、それぞれの国の民間機や軍用機で帰国していったが、200人以上にも及ぶ在留日本人はそうは行かずに窮地に陥った。
諸外国機は自国民の救出で手一杯、自衛隊機は当時の法制上の制約で使えない、唯一たよりのフラッグキャリア日本航空は、乗務員労働組合の反対で拒絶するというありさま。そこへ支援の手を差し伸べたのがトルコであった。トルコ航空の最終便を2便に増加させ、それに215名の日本人全員が分乗するという形で無事脱出できた。イランと国境を接するトルコ自国民は、陸路脱出も可能という判断からだった。
これは、百年前の明治年間に起きた「エルトゥール号遭難事件」で、日本から受けた恩義に報いるためであるとの美談として報じられた。千年の恨などという、どこかの国と比べるなかれ。
◎富士見産婦人科病院事件
*1980.9.11/ 埼玉県警が所沢市の芙蓉会富士見産婦人科病院理事長、北野早苗を無免許診療で逮捕。捜査が進むなかで多額の政治献金が表面化する。19日、1,800万円を受取っていた斉藤邦吉厚相が辞任。
埼玉県所沢市の富士見産婦人科病院は、まるでホテルを思わせるような立派な建物・設備で、遠方からも多数の妊婦が訪れるなど繁盛していた。いち早く超音波検査装置を導入して診療していたが、院長の女性医師の夫の理事長は、医師免許をもたないまま無資格で検査診断をしていた。
しかもその後の調査によると、子宮癌や子宮筋腫と診断され子宮・卵巣を摘出された妊婦のうち、大半がその必要がなかった可能性が指摘された。しかし病院ぐるみで行われた乱診乱脈医療は、意図的に隠蔽された場合、当事者以外の実証は困難であり、傷害罪での立件は見送られた。
しかし、別の訴訟で証拠押収された臓器の鑑定結果から、その多くが施術の必要がなかったという専門家の判定が出されたが、その時点での傷害罪はすでに公訴時効となっており、無資格診療の理事長が医師法違反、見逃していた院長が保助看法違反で立件されたが、両者とも執行猶予付きの軽微な有罪判決となった。
並行して元患者の女性らが民事訴訟を起し、元理事長夫妻や担当医師ら7人に総額5億円を越える賠償を命じる判決を下した。だが決着がついたのは、提訴から23年経った後であった。
また院長の医師免許は取り消しされず、元理事長夫妻は所沢市で新たな病院を経営し診療を始め、さらに出版物で治療の正統性を訴えるという活動をしていた。これに反発した被害者の活動もあり、厚生省医道審議会は民事裁判の結果をふまえて、元院長の医師免許取り消し処分をしたが、これも事件から25年後、院長が78歳になってからであった。
同時に、医療行政を取り仕切る当時の厚生大臣や、地方自治行政を担当する自治大臣が、富士見病院から政治献金を受けていたことが露顕し、大臣を引責辞任するにいたった。
私事だが、この年の6月に家族共に所沢市内に転居してきていた。事件が明らかになる前、妻は富士見病院外来で診療を受けていたという。その後、たまたまより近い病院に変更していたが、事件を知って驚くことになった。翌年10月、別の病院で無事次男を出産し、事なきを得たのであったが。
◎神奈川金属バット両親殺害事件
*1980.11.29/ 神奈川県川崎市で、大学受験の予備校生が金属バットで両親を撲殺する。
1980(s55)年11月29日、川崎市高津区の高級住宅街で、夫婦が鈍器のようなもので撲殺される事件が発生した。第一発見者である二男N(20)は大学受験勉強中で、午後9時すぎに目を覚まして1階に降りていったところ、両親が殺されていたという。捜査本部では、外部からの侵入の形跡が薄いこと、問い詰めた親類からの通報などから、二男に事情を追及、「金属バット」で撲殺したと自白した。
二男Nは都内の私立進学校に進むが、高校入学時から成績が落ち始め、早稲田大学などの受験に失敗、予備校へ通うが成績は伸びなかった。結局受験浪人1年目も受験に失敗する。Nは野球が得意で、母親からは手間のかからない子供といわれたが、父親は教育熱心な東京大学卒のエリートで、二男の早稲田大学受験失敗には面罵したという。
精神的な重圧からか、Aはレコードを買うために父親のキャッシュカードを無断で使用したり、酒を飲んだりするようになる。事件前夜にこの行為が両親に見つかり、叱責され蹴られ、ふだんはかばってくれる母親からも叱責されたため、自分の居場所を失ったと感じたNは、数時間後の翌朝未明、酒を大量に飲んだあと金属バットで両親を撲殺した。
Aは犯行後、強盗の仕業にみせかけるために金属バットや血の付いた衣服を隠すなどの偽装工作を行った後、夜が明けてから警察に通報し、強盗による殺害と証言したが、翌日、警察の追及で犯行を認め、その後はよどみなく詳細を供述した。
裁判では、Nには前科や非行歴がないこと、若干の発達障害があったこと、飲酒による酩酊状態などによる偶発的な犯行であることなど、情状酌量が加味され懲役13年の判決となった。Nは控訴せず有罪が確定、千葉刑務所に服役し、すでに刑期満了で出所している。
エリートの父親を金属バットで母親と共に殴り殺したというショッキングな出来事は、当時大きな話題を呼び、幾度もノンフィクションやテレビドラマの題材となった。家庭不和、父への劣等感、受験戦争など、現代の家庭問題の多くのテーマが含まれ、各方面で議論された。さらに深層的な性問題にもからめて、エディプスコンプレックス、母子相姦などを読み込んで理解しようとする説もあるが、あくまで推測の域を出るものではない。
(この年の出来事)
*1980.7.19/ 第22回オリンピック・モスクワ大会が開催されるが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、日本を含む西側諸国の多くがボイコット。
*1980.3.6/ ロッキード事件の公判に関連して、自民党浜口幸一衆議院議員のラスベガス賭博で負った借金が、小佐野賢治を通じた金で返済されていたことが判明、浜田は議員を辞職する。
*1980.5.23/ 黒沢明監督の「影武者」が、フランスのカンヌ映画祭でグランプリを受賞する。
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