2020年12月22日火曜日

【20C_s5 1978(s53)年】

【20th Century Chronicle 1978(s53)年】


◎竹の子族

*1978.3.18/ 原宿に「ブティック竹の子」が開店する。


 このころから'80年代に掛けて、原宿歩行者天国や代々木公園入口などで、中高生を中心としたグループが、もち込んだラジカセから流れるディスコサウンドに乗り、奇抜なファッションで終日踊りまわった。原宿竹下通りに開店した「ブティック竹の子」で購入した奇抜なファッションなどから、「竹の子族」と呼ばれだしたという。


 '60年代にも「みゆき族」や「サイケ族」などというグループがあったが、それらはファッションを見せるだけで、特別なパーフォーマンスはしなかった。竹の子族は集団でステップを踏み、しかも年齢層がハイティーンで、それまでの族よりはかなり若い。


 そして彼らの風俗が、その後の原宿の街全体のイメージを変えた。アニメブームとも相まって、竹の子族はコスプレファッションの元祖とも言えるのかも。おもなグループ名一覧があったので、一部、並べてみる。


 愛羅舞優(あいらぶゆう)・加速装置 (アクセル)・悪夢瑠(アムール)・異次元(いじげん)・恵女羅流怒(エメラルド)・可愛娘不理子(かわいこぶりっこ)・呪浬悦賭(ジュリエット)・・・暴走族グループ名とも少し違うが、いわゆるキラキラネームを想像させる。



◎成田空港管制塔占拠事件

*1978.3.26/ 開港反対派ゲリラが成田空港管制塔を破壊。開港が大幅に遅延する。

*1978.5.20/ 新東京国際空港(現「成田国際空港」)の開港式が行われる。


 '62年に新国際空港の建設が閣議決定されてから16年、やっと開港が目前にせまった3月26日、ほぼ完成した成田空港に空港反対派4千人が突入、一部別動隊が管制塔を占拠し準備完了していた管制塔通信機器を破壊した。これにより開港は2ヵ月以上遅れることになり、やっと5月20日に開港式典がとり行われるはこびとなった。

 当初の反対運動は地元農民たちが主であり、それを支援する社会党や共産党などの既成政党は、反対運動を党勢拡張に利用しようとしたりして、反対同盟から追出される形で脱落した。その隙間へ新左翼が参入してきて、反対運動は過激さを増してゆくことになった。


 70年安保問題が自動更新で決着して以降、新左翼運動は大きな活動テーマを見失う形になり、世間の関心の外におかれるようになった。赤軍派のような過激武装路線をとった急進派は、有力幹部らが国外に脱出して海外テロやハイジャックを連発した。日本残留組は、指揮系統の弱体化をともなって、内部分裂や身内リンチ事件をひき起こし、浅間山荘事件などで自滅していった。

 別の新左翼セクトらは、農民大衆との共闘を訴えられる成田の空港反対運動に目をつけた。国家権力側も、赤軍派のような民衆から遊離した跳ね返りなら実力行使で鎮圧できるが、地元農民・住民を巻き込んだ反対運動は、おいそれと鎮圧行動には出られないため、その沈静に多くの時間と犠牲を払うことになった。


 やっとのことで開港にこぎつけた「成田国際空港」であるが、その後の拡張工事など残された問題も多く、いまだ反対運動さえある。当初、東・東南アジアのハブ空港を期待されたが、開港までの長期におよぶ工事遅延の上に、空港自体の機能制限(滑走路・離着陸時間制限・利用料金の高さなど)、さらには首都圏中心部からの遠さ及び移動料金の高さなどの問題をかかえ、シンガポールのチャンギ国際空港や韓国の仁川(インチョン)国際空港などに遅れをとっている。

 さらに、羽田空港(東京国際空港)への国際線乗り入れや、首都圏第3の空港としての茨城空港の開港、さらには関西国際空港との競合により、相対的な地盤沈下さえ心配される。近年増加一方の LCCなど格安航空への対応など、さらに一層の競争にさらされることになるであろう。


◎キャンディーズ解散

*1978.4.4/ キャンディーズ解散コンサート 5万5千人の聴衆に「私たちは幸せでした」。


 「普通の女の子に戻りたい」という名言を残したキャンディーズ、その言葉は後に、都はるみ「普通のおばさんになりたい」に無事継承された。突然引退宣言をしたので半年延長されて、この4月4日、後楽園球場(東京ドームはまだない)の特設ステージで、史上空前の5万5千人のファンをあつめ解散コンサートが開かれた。


 最後に述べた「本当に私たちは、幸せでした」の口上も、「普通の女の子の幸せ」に共感するファンたちの歓声につつまれた。キャンディーズに関心がなかった私などでも、この二つの言葉とキャンディーズが結びついて記憶に残された。そして、写真の某大臣も、若き日の一ファンとして涙を流したことであろう。

「キャンディーズ・メドレー」 https://www.youtube.com/watch?v=bSwsL89kuHg:embed:cite


◎日中平和友好条約

*1978.8.12/ 北京で、日中平和友好条約が調印される。


 1972(s47)年2月21日、ニクソン大統領は北京を訪問し、2月28日に上海で「米中共同コミュニケ」が発表され、中華人民共和国と国交を結び「一つの中国」を認める方向性を打ち出した。台湾の扱いが大きな課題となって、両国の国交は1979年1月までずれ込み、中国は鄧小平、米は民主党政権のジミー・カーター大統領の時代に、やっと国交が樹立された。

 頭越しのニクソン訪中であわてた日本は、1972(s47)年9月25日、田中角栄首相が訪中し、9月29日には「日中共同声明」に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。田中首相は、アメリカより先の国交回復で出遅れを帳消しにしようと、大平外相・二階堂官房長官など重要閣僚8名で訪中し、即決で国交正常化にこぎつけた。


 その6年後の1978(s53)年8月12日、北京で、日本国と中華人民共和国との間に、正式に「日中平和友好条約」が締結された。アメリカを筆頭に日本を含む西側諸国が、「中華人民共和国」を唯一の中国の主権国家として認める一方で、台湾の「中華民国」とは国交を断絶することになり、台湾政府は困難を迎えることになる。

 日中平和友好条約の内容は、1972(s47)年9月の日中共同声明を基本的に踏襲したものとなった。第1条で主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述され、第2条で「反覇権」を謳い、第3条で両国の経済的、文化的関係の一層の発展を述べて、第4条でこの条約の「第三国との関係」について記されている。


 国交回復から平和条約締結までに6年を要したのは、「反覇権」条項と「第三国」条項で、日中間で意向の違いがあったからとされる。 当時は中ソ対立が激しい時代であり、中国は主たる敵の米・ソにおいて、ニクソン訪中以来米中関係は改善しつつあり、むしろ対ソ連を牽制する必要があり、ソ連を念頭に置いた「反覇権」条項に固執した。

 しかし日本政府(三木武夫首相・宮澤喜一外相)は、北方領土問題を抱え、日ソ平和条約を視野にソ連と交渉を進める立場から、この「反覇権」でソ連を刺激するのをおそれた。そこで日本側は、反覇権は特定の第三国に向けられたものではないという「第三国条項」を加える妥協案を提示した。


 一方でその間に、中国では周恩来首相と毛沢東主席が相次いで死去、四人組が逮捕されて文革の動きが沈静化し、華国鋒主席の時代に入るとともに、1977(s52)年7月に「鄧小平」が共産党副主席として再復活し、経済建設路線を主導するようになった。

 日本では1977(s52)年末に、三木武夫が退陣し、福田赳夫が首相に就任しており、1978(s53)年になると、福田は交渉の機は熟したとして、一気に条約を推進すべく事務レベルの交渉を煮詰めてゆき、そして日中双方の妥協が成立し、1978(s53)年8月「日中平和友好条約」の締結にこぎつけたのであった。


◎京都市の路面電車

*1978.9.30/ 1895年開業の京都市の路面電車が全廃される。


 日本最初の路面電車は、明治28年、民間会社の京都電気株式会社(京電)によって開通した。東京遷都により衰退が懸念された京都は、東京政府からの「手切れ金」を活用して「琵琶湖疏水」の大事業と取組んだ。琵琶湖の湖面と京都市街地の間には50mの落差があり、その高低差を利用して京都市内に疎水を引く。そしてその京都への入り口「蹴上」に、これも日本初の発電所を設置した。コンプレックスの裏返しだろうが、かように京都人はやたらに「日本初」というのが好きなのである。

 かくして日本最初の電力を利用して、日本初の路面電車を走らせた。というか、発電したものの電気の使い道が無かったので電車を走らせたとか。のちに市営の「京都市電」に吸収されたが、戦前戦後を通じて市電網が、京都独特の碁盤の目の道路上に張りめぐらされた。最盛期の路線図で、外周路線で囲まれた矩形部分は旧洛中をほぼ含み、ほぼ京都の市街地を構成していた。


 電停名を見れば分るが、京都の地名は南北の通りと東西の通りとの交差で表されることが多い。たとえばJR京都駅からタクシーに乗り「四条」と行き先を告げると、意地の悪い京都人運転手なら「はい、四条のどちらどすか?」などと前方を向いたまま聞き返す。「四条通は東から西の端まで5kmぐらいある通り、そのどこか分らんじゃないか」ということを慇懃無礼に言っているのである。

 開業時の「京電」を偲ばせる路線も、昭和36年に廃止されるまで堀川の東(東堀川通り)を沿って走っており、「チンチン電車」として親しまれた。線路幅も狭くマッチ箱のような車体で、乗降口のドアはなく鎖を掛けただけ、チンチンと発車音を鳴らして出発する。実際に走っているのは見たが、残念ながら乗る機会はなかった。


 旧国鉄京都駅前から烏丸通を北に向かう市電も見なれた光景、背景の京都駅の旧駅舎も懐かしい。のちにモータリゼーションが進むと、さほど広くない京都の主要道路の真ん中を走る電車軌道は邪魔にされるようになってきた。そして昭和53年9月全面廃止となった。なつかしいグリーンとクリームのツートンカラーの電車車両は、いまでも地方の都市で活躍していると言う。


◎空白の一日 江川入団トラブル

*1978.11.21/ 巨人軍と江川卓投手が野球協約の盲点をついて選手契約を結ぶ。以後、球界が紛糾する。


 この年のドラフト会議の前日、読売ジャイアンツは江川卓投手との電撃的な契約を発表した。当時の野球協約では、前年指名した選手との交渉権はドラフト会議の前々日までとされていた。会議前日は、翌日のドラフト会議に備えての、関係者の移動や準備のためのドラフト閉鎖日という考えであり、このような「空白の一日」を利用しようとしたのは読売側のみであった。

 江川周辺の近親者や取巻きが取り仕切ったという噂もあって、江川本人がどれだけ関わっていたかは不明だが、少なくともグレーゾーンでの契約だとは認識していたと思われる。翌日予定通りにドラフト会議が実施され、阪神タイガースが江川の交渉権を得た。当然ながら問題は錯綜し、最終決定権を持つ金子コミッショナーは巨人軍の契約を無効としドラフト会議の結果を正当とした。


 ただし、「江川は阪神と入団契約した上で巨人にトレードさせる」という「強い要望」を添えた。セリーグからの離脱も辞さないという巨人軍正力オーナーの脅しもあり、巨人寄りの傀儡コミッショナーがゆるゆる裁定を下したというわけだ。タイガース側も馴れ合いで、結果的に当時エースの小林繁との交換トレードが成立した。

 江川もドラフトに関しては不運だった。高校ですでに「怪物」と呼ばれ、卒業時には大学進学希望を公表するも、阪急ブレーブスに指名される。拒否するも慶応のセレクションに落ち、法政大学に進学。大学で活躍し4年後、巨人指名を強く希望するも、クラウンライター・ライオンズという不人気球団が強行指名。再度、江川側は拒否して、アメリカ野球留学という事実上の野球浪人を選ぶ。


 かくして再々度、巨人の指名を期待してのドラフトを迎え、「空白の一日」という巨人側の提案にのることになる。相思相愛という大義名文でゴリ押しした巨人は、小林というエースの放出という犠牲をになうも念願の江川獲得となった。阪神にトレードされた小林は、翌年22勝をあげ沢村賞を獲得、対巨人戦でも無敗だった。


(この年の出来事)

*1978.7.16/ 西ドイツのボンで、第4回主要先進国首脳会談(サミット)が開かれ、日本は福田赳夫首相が参加する。

*1978.11.11/ 無限連鎖講(ネズミ講)防止法が公布される。(1979.5.11施行)

*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。


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