【20th Century Chronicle 1948(s23)年】
◎寿産院事件
*1948.1.15/ 新宿区の寿産院の院長夫妻が、もらい子殺しの容疑で逮捕される。1944年以来、嬰児の養育費・配給品を着服し、103人を餓死させた。(寿産院事件)
戦後のベビーブーム(いわゆる団塊の世代がこの前後の年に生まれた)の時期で、大量の嬰児が「寿産院」に預けられていたが、同院では預かった嬰児に対する虐待が常態で、凍死、餓死、窒息死などさまざまな死因で亡くなっていた事実が発覚した。寿産院を経営する夫婦は、親からは養育費、東京都からは補助金と配給品を受けとりながら、配給品を闇市に横流しするなどして、ろくに食事を与えず100人を超える嬰児を餓死させていた。
寿産院を経営する主犯石川ミユキ(51歳)と夫の猛(55歳)が殺人容疑で逮捕されたが、主犯の妻が懲役4年、共犯の夫は懲役2年の判決に終わった。当時は、東京地裁判事が、違法の闇米に手を出さず配給米だけで生活した結果栄養失調死するなど、極度の食糧難の時代であり、産院の嬰児も似たような境遇にあったとする風潮が、このような軽微な刑の背景にあったともされる。
◎帝銀事件
*1948.1.26/ 豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒殺され、現金と小切手が強奪される。(帝銀事件)
「帝銀事件」とは、1948(昭23)年1月26日、帝国銀行椎名町支店で起きた行員毒殺強盗事件である。銀行の閉店時間に厚生省技官を名乗る男が現れ、近辺で赤痢が発生したため持参した予防薬をのむようにと指導、それを飲んだ行員及び関係者16名のうち12名が死亡するという事件が発生した。
青酸化合物による毒殺と判定されたがほとんど物証とされるものはなく、捜査は使用された毒物の扱いに習熟している者という方面から、戦中の731部隊など細菌毒物兵器の開発関係者という方向で操作が進むも、GHQの指示(敗戦後ですべてGHQ指揮下にあった)で突然中止された。
この事件の前に類似事件が2件あり、それらも同一犯人と推定されたが、それぞれの事件で犯人は衛生技官を名乗る名刺を差し出していた。偽名のものもあったが、うちに実在人物の名刺があり、その名刺を受取った者をしらみつぶしに当った結果、著名な画家であった平沢貞道が浮かび上がった。
状況証拠と手配似顔絵に似ているということから平沢は逮捕され、当初は無罪を主張するも、拷問に近い取調べの下で自白に至る。当事は戦前からの刑法が摘要され「自白第一主義」であったため、物的証拠皆無にもかかわらず、一審で死刑判決、控訴上告も棄却され昭和30年に死刑が確定する。その後幾度も再審請求するも認められず、逮捕から39年後の1987(昭62)年、95歳で収監先の八王子医療刑務所で死亡する。
平沢が真犯人であるかどうかは永遠の謎であるが、歴代の法務大臣が死刑執行に判をつかず、95歳の自然死まで放置したこと自体が、何らかの示唆をしているであろう。DNA鑑定などまだない時代だが、指紋一つ平沢を示す物証としては提出されていない。
平沢を犯人とする状況証拠の一つとして、事件で奪われた18万ほど(現在で100万程度の価値か)とほぼ同額を、逮捕前に自己口座に入金したという事実が挙げられる。平沢はこの入手元を明示せず、より疑いが深められることになった。当時の混乱社会では一定の評価を受けた画家であっても、絵だけを売って食ってゆくのは至難であった。平沢も「春画(猥褻画)」を裏で描いて生活の糧としていたのだが、それを言うのは画家としてのプライドが許さなかったからではないかとも推測されている。
◎九州帝国大学 生体解剖事件
*1948.3.11/ 横浜軍事裁判所で、九州帝国大学生体解剖事件の軍事裁判が始まる。(1945.5 米軍捕虜8人に対して行われた生体実験殺人)
戦争末期の1945(昭20)年5月、砲撃された米軍のB-29爆撃機が九州阿蘇山中に墜落し、生存搭乗員9名が捕虜となった。指令部からは、尋問のため機長だけ東京に送り、後は各軍司令部で処理すべしという指令が出され、西部軍司令部は裁判をせずに、残された8名を死刑と決定した。これを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医と、石山福二郎帝大主任外科部長(教授)は、生体解剖に供することを軍に提案し認められた。
生体解剖は1945(昭20)年5月17日から6月2日にかけて行われ、軍から監視要員が派遣されたうえで、指揮および執刀は石山教授が行った。終戦後GHQが事件について詳しく調査し、九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。首謀者の一人とされた石山教授は、生体解剖については否認したうえ、調査中に独房で遺書を書き記し自殺し、小森卓軍医は空襲のため死亡している。
1948(昭23)年8月の横浜軍事法廷で、西部軍責任者2名、九大医師3名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。これらの手術が銃殺刑の代わりの、生存を考慮しない生体実験手術であることは、立ち会った関係者の目には明らかであった。後に作家遠藤周作は小説「海と毒薬」を著し、不可避的に立ち会わされた医学生や看護婦の目を通して、危機的状況の下では、惰性に流されて倫理感を喪失してしまう日本人の性質を描き出している。
*1948.6.13/ 作家太宰治(38)が玉川上水に入水自殺する。
1948(昭23)年6月13日、作家太宰治が、愛人山崎富栄と共に玉川上水へ入水心中し、太宰39歳の誕生日となるはずであった6日後の6月19日、両人の遺体が発見された。この日は彼の作品にちなんで「桜桃忌」と名付けられ、今でも多くのファンが太宰の墓前に集うという。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。
だが憶測は憶測にすぎない。一方が人気作家であれば、マスコミやファン筋からは身びいきの推測が流されることが多い。そのような意向は、両者の遺体が引き上げられた後の扱い方にも反映されたのか、太宰の遺体は立派な白木の棺に収められ、富栄の方はムシロを掛けたまま数時間も土手にうち捨てられていたという。
太宰治のもっともお気に入りと思われる生前の一枚の写真がある。銀座のショットバー・ルパンで、ご機嫌な様子をとらえた有名なカットだが、撮影者の林忠彦によればこの時、同じく無頼派作家の織田作之助を撮っていたそうだ。その時「俺も撮れ」とからんできたベロンベロンの酔っぱらいが太宰だったという。
太宰というのは、いささか厄介な作家であったりする。同じ無頼派作家とされた坂口安吾の場合など、そのファンだと公表するのは誇らしくさえ思えるのに、太宰の愛読者であると披露するのはいかにも恥ずかしく感ぜられる。若いころ文学仲間と談笑するときには、太宰を糞味噌にけなすのがいわばオヤクソクなのだが、そんな友人の部屋を訪問すると、しっかり太宰治全集を買い込んであったりする。しかも本棚の隅っこに、紙で覆って隠してあったりするのだ。むしろ、ファンであることを公言し、桜桃忌には墓前で太宰をしのんだりできる読者の方が健全なのかも知れぬ。
◎昭電疑獄
*1948.6.23/ 昭和電工社長の日野原節三が逮捕される。(昭電疑獄)
*1948.10.7/ 昭電疑獄に関連した道義的責任を問われて芦田内閣が総辞職する。(12.7 芦田前首相も逮捕)
終戦直後の内閣は、不安定に交代を繰り返した。敗戦処理内閣として東久邇宮内閣、幣原喜重郎内閣と続いたが、戦後最初の帝国議会選挙(衆議院選挙・第22回)が行われ、公職追放になった日本自由党総裁鳩山一郎の代理として、第1次吉田茂内閣が成立した。日本国憲法が制定されると、そのもとでの初の総選挙(第23回)では、食糧難の窮乏下で社会主義・労農勢力の伸長が際立ち、社会党が比較第一党となった。
日本最初の社会党中心の連立政権である片山哲内閣が成立したが、組閣も難航するほどの寄集め政権で、まもなく内部分裂して総辞職した。後を受けて、比較的リベラルとされた民主党総裁の芦田均によって、引き続き民主党・日本社会党・国民協同党を与党として芦田内閣が組閣された。しかし半年後に昭和電工事件が発生し、内閣重鎮や芦田自身も起訴されるなどして、政界混乱のうちに総辞職した。
昭電疑獄は、復興物資の横流しや復興金融の不当融資に係る戦後産業事情を反映した事件であるとともに、民主選挙・民主政治に多額の裏資金が動くというということを示す、戦後最初の大規模贈収賄事件となった。大手化学肥料メーカ「昭和電工」の社長日野原節三が、「復興金融公庫」からの巨額融資を受けるために、政・官・財界に膨大な賄賂をばらまいた。大蔵官僚福田赳夫(後の首相)や野党民主自由党の重鎮大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕をはじめ、内閣閣僚の栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙されるなどして、芦田内閣の崩壊をもたらし、辞職後芦田自身も逮捕された。
収賄側としては、GHQの下で日本の民主化を進める民政局(GS)のチャールズ・ケーディス大佐ら高官の名前が取り沙汰された。これにはGHQ内部の、民主化推進派と反共対策派の対立があったとされるが、これらの疑惑はGHQの介入により握りつぶされる。日本側の政財界人も、日野原社長と栗栖長官が執行猶予付きの軽微な有罪となった以外は、すべて無罪とされた。後に引き起こされた造船疑獄でも、当時与党自由党幹事長の佐藤栄作(のちの首相)が法務大臣の指揮権発動で逮捕を免れるなど、政局安定を優先した司法運営が続くことになる。
https://ameblo.jp/kai211168/entry-12795354936.html
https://bunshun.jp/articles/-/50828
(この年の出来事)
*1948.3.10/ 片山内閣が、社会党の左右両派の対立で総辞職(2.10)したのをうけて、民主・社会・国民協同の3党連立で、芦田均内閣が成立する。
*1948.6.24/ ソ連が西ベルリンへの交通を全面遮断し、ベルリン封鎖が始まる。
*1948.11.12/ 極東軍事裁判で、A級戦犯25人に有罪判決、うち東条英機ら7人に絞首刑が宣告される。
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