2020年11月2日月曜日

【20C_s3 1947(s22)年】

【20th Century Chronicle 1947(s22)年】


◎2・1ゼネスト 中止

*1947.1.1/ 吉田首相がラジオ放送での年頭の辞で、労働運動の一部活動家を「不逞の輩」と非難し、問題となる。

*1947.1.31/ 2・1ゼネストが、マッカーサーの命令により中止される。


 1947(昭22)年2月1日に実施を計画されていたゼネラル・ストライキが、決行前日になって、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となった。全国労働組合共同闘争委員会の伊井弥四郎共闘委員長は、GHQによって半強制的に、NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された。午後9時15分に伊井委員長は、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表した。 

 戦争中は労働運動が禁止され、労働組合は解体されていたが、戦後に進駐したGHQは、日本に米国式の民主主義を植えつけるため、その他の民主化政策とともに、労働運動を確立することが必要と考え、労組勢力の拡大を容認した。GHQにより合法化された日本共産党がリードする形で、労働運動が高揚し、1946(昭21)年8月には総同盟と産別会議、さらに9月には全官公労が結成された。


 同年11月には、総員260万人にもなった全官公庁共闘が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、要求への政府の対応を不満とし「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、明確に倒閣を宣言し、もはや経済要求の闘争の域を超えてしまった。

 1947(昭22)年1月1日、吉田茂首相は年頭の辞で、過激になってきた労働組合などを「不逞の輩」と呼んだ。これに煽られた労組は一斉に反発し、1月9日に全官公庁共闘はゼネラル・ストライキを決定、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長がゼネスト実施を宣言した。


 要求受け入れの期限は2月1日として、要求受け入れが実現されない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。ゼネストが実施された場合、交通・通信など日本経済の動脈がストップし経済活動が停止してしまう。また、日本各地に駐留する米軍への補給寸断・相互連絡の途絶が発生すれば、日本の治安維持および軍事的にも重大な危機に陥ると判断された。

 1月22日と1月30日の2度にわたって、伊井委員長など幹部は、GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカット少将に呼び出され、ゼネストは許されないと忠告されたが、伊井はマッカーサーの命令でないと承諾しなかった。しかし、期限切れ直前の1月31日午後4時、マッカーサーは直接「ゼネストの中止」を指令した。


 2・1ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされる。意図的に労働者の権利意識を向上させながらも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、GHQは労働者側には立たないことを示した。

 しかしその後もストライキがあとを絶たないため、マッカーサーは芦田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示し、1948年(昭23)年7月31日公布の政令201号によって、国家・地方公務員のストライキは禁止されることになった。


 また、占領軍を解放軍と規定していた日本共産党は、GHQの方針転換に迷走した後、かつての暴力革命路線(ボルシェヴィズム)へ転換することとなる。そのため、労働者からの支持を失い、その後の労働組合は日本社会党支持に傾いていく。

 さらに、1949(昭24)年10月の中華人民共和国(中共)の建国や、1950(昭25)年6月の朝鮮戦争の勃発をみて、GHQの占領政策は、それまでの急激な民主化から、日本を「逆コース」と呼ばれる共産主義への防波堤的に位置づける政策に転換した。


◎日本国憲法施行と民主的法体系の整備

*1947.3.31/ 教育基本法・学校教育法が公布される。

*1947.4.7/ 労働基準法が公布される。

*1947.4.14/ 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独禁法)が公布される。

*1947.4.17/ 地方自治法が公布される。

*1947.5.3/ 日本国憲法が施行される。

*1947.10.21/ 国家公務員法公布。国家公務員の団体行動などを制約する。

*1947.10.26/ 改正刑法が公布される。不敬罪・姦通罪を廃止する。

*1947.12.17/ 警察法が公布される。警察の地方分権化と民主化をうたう。

*1947.12.22/ 民法が改正公布される。


 1947(昭22)年3月31日、新憲法に併せて新教育法が公布された。教育基本法および学校教育法は、軍国主義の教育の象徴とされる旧教育勅語を廃し、新しい憲法にそぐう民主教育の根幹を規定した。学校教育法では、旧来の一貫しない複線型学校体系を整備して、いわゆる「6-3-3-4制」を基本とする単線型学校体系に改められた。従来と区別するために「新制中学・新制高校」という言葉がよくつかわれた。

 就学前の子供の頃、父親が「しんせい」という言葉を使うたびに、当時父が吸っていたタバコ「しんせい」のことだと思い込んでいた。たしかに、この時期に発売されて新生日本を強く意識した命名ではあったのだろうが。ちなみに昭和9年生まれの兄は、ちょうどこの時期の新制中学一期生だと言っていた。学校設備などが追い付かず、当初は小学校内に併設された教室で学んだという。


 1947(昭22)年4月7日、「労働基準法」が公布された。「労働基準法」は、この前後に制定された「労働関係調整法」と「労働組合法」とともに「労働三法」と呼ばれる。後の二法が組合団体活動を定めたのに対し、労働基準法は、個別の労働者の保護基準を規定したものとされる。

 また、1947(昭22)年4月14日、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独禁法)」が公布された。戦前の軍国主義に寄与した財閥解体などの施策に関連して、わが国でも独占禁止法が制定されることになった。一概に独禁法と言っても、それぞれの国の経済事情に対応して、制定される経緯が異なり、アメリカでは、M&Aなど企業買収や合併などでの企業集中を排除する目的に沿って形成されてきたが、日本では、市場の競争維持など、消費者の利益保護を目的に発展してきた。産業構造の進展にともなって、その規制は、領域ごとに緩和されたり拡張されたりと変化を繰り返す。


 この1947(昭22)年には、ほかにも多くの新法が制定されたが、それらは1947(昭22)年5月3日から施行される「日本国憲法」との整合性を保つために必然とされた。日本国憲法は、大日本帝国憲法の「改正」という形で制定された。同じく、刑法・民法も旧法の改正となっているが、当然ながらその条文は大幅に変更追加されたものになった。「改正刑法」では、大逆罪・不敬罪などが削除され、「改正民法」では、家父長制的な家族制度を基にした「家制度」が廃止されるなど、民主憲法に対応して改正された。


◎戦後ショービジネス

*1947.1.15/ 新宿帝都座5階劇場で、初の額縁ヌードショーが開演される。

 東京新宿の帝都座で日本初のヌードショーが上演された。舞台上に設けられた額縁の中で、裸体の女性が数十秒間ポーズをとるだけだったが、 これまで禁じられていたヌードということで多くの観客が殺到した。「名画ショー」と称して、秦西名画の「ヴィーナスの誕生」などに見立てた構図でポーズをとった。やがて、浅草の常盤座などで本格的なストリップが上演されるようになり、全国に広がっていった。


*1947.8.1/ 新宿・帝都座で初演された空気座による「肉体の門」の大ヒットは、その後の演劇に大きな影響を与えた。


 戦後のパンパン(米兵などを相手にした娼婦はこう呼ばれた)風俗を描いた田村泰次郎作の小説「肉体の門」は、大きな話題を呼び、帝都座で新宿空気座によって初演されると、やがて1,000回を超えるロングランとなった。「肉体の解放こそ人間の解放である」というテーマが受け入れられたのかどうか、その後何度も映画化やドラマ化された。

 私も中学生のころ、納屋に転がっていた本を見つけて盗み読みした覚えがある。戦後すぐの粗悪な紙で製本されており、しかも旧字体旧仮名遣いでの印刷だったが、一向に苦にならなかった。


*1947.9.-/ 笠置シズ子が梅田劇場で「東京ブギウギ」を歌い、爆発的なブギ人気が起こる。


 笠置シヅ子は戦前から活躍していたが、当時の軍国主義下でステージは様々な制限を受けた。しかし戦後になると、歌って踊れるスターとして一躍ブームとなり、「ブギの女王」として一世を風靡した。服部良一作曲による「東京ブギウギ」が大ヒットすると、次々と「大阪ブギウギ」「買物ブギ」などのブギものをヒットさせて、「ブギの女王」と呼ばれた。

 のちに天才少女歌手と呼ばれる美空ひばりも、笠置シヅ子の物真似でデビューしたほどで、ひばりが登場するまではスーパースターとして芸能界に君臨した。私が子供のころテレビで観た笠置シズ子は、すでに歌を封印しており、大阪弁を話す不細工なおばさんとして、ドラマのわき役で登場する程度であった。

https://www.youtube.com/watch?v=9FCmuZXLt9g


(この年の出来事)

*1947.1.4/ 公職追放令が改正され、追放範囲が言論界や地方公職などに拡大される。

*1947.4.1/ 日本全国で、男女共学および6・3制の義務教育が始まる。

*1947.6.1/ 日本社会党の片山哲が首相となり、社会・民主・国民協同の3党連立で片山内閣が成立する。

*1947.10.14/ 秩父・高松・三笠の3直宮家を除く、11宮家51人の皇籍を離籍する。


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