2020年11月13日金曜日

【20C_s3 1957(s32)年】

【20th Century Chronicle 1957(s32)年】


◎第1次南極越冬隊

*1957.1.29/ 日本の南極観測隊がオングル島に上陸し、昭和基地を設営する。(第1次南極越冬隊)


 1957(s32)年1月29日、日本の第1次南極越冬隊が南極のオングル島に上陸した。南極観測船「宗谷」からヘリコプターでオングル島に上陸し、日本最初の観測基地を設営、この基地は「昭和基地」と名付けられた。昭和基地の建設は順調に進み、第1次南極観測隊の隊長 永田武は、西堀栄三郎を越冬隊長とする第1次越冬隊を結成した。

 2月15日、第1次越冬隊11人を昭和基地に残した南極観測船「宗谷」は、オングル島を離岸するが、2月24日、宗谷は氷海にとり囲まれて立ち往生し、身動きが取れなくなってしまった。宗谷はぎりぎりまで自力脱出を試みたが断念、もっとも近くに居たソ連の砕氷船「オビ号」に救助を要請し、無事氷海から外洋への脱出に成功した。当時東西冷戦で対峙する敵側ソ連のオビ号が救出に来てくれたことは、当時子供心にうれしくおもったものである。


 日本最初の砕氷船「宗谷」は、北海道北部の宗谷海峡にちなんで名づけられたものであるが、戦前に砕氷型貨物船として建造され、戦時中は海軍特務艦となるなど数奇な運命をたどる。国際地球観測年(IGY)に際し日本も南極観測に参加することになると、急遽砕氷船が必要となった。そこで日本で数少ない砕氷型だった宗谷に白羽の矢が立てられ、砕氷観測船として改造されることになった。とはいえ急造砕氷船宗谷は、当時の米ソ砕氷船とは比べ物にならないほど見劣りがするものであって、小舟で大洋に出るほどの冒険でもあった。


 宗谷はその後も、何回も南極観測船としての任に就くが、翌1958(s33)年の第2次南極観測船の時に、樺太犬「タロとジロの物語」を現出することになる。宗谷は第2次越冬隊員を送り込むべく昭和基地に近づくが、この年の南極の気象状態はきわめて悪く、宗谷以外にも各国砕氷船が氷に閉じ込められるような状況となった。最終的に第2次隊員の越冬は断念し、飛行艇で第1次隊員たちを救出することになった。だが、越冬して活躍した15頭の樺太犬までは救助しきれず、首輪で昭和基地付近につないだまま残すより仕方がなかった。

 犬たちの生存は不可能と思われたが、その翌年1959(s34)年の第3次越冬隊のヘリが昭和基地に着いたとき、2頭の犬が姿を見せた。これがタロとジロで、この奇跡は高倉健主演で「南極物語」として映画化された。さらに米ディズニーも映画化しており、これらの映画からタロ・ジロの物語を知った人も多いと思われる。

https://www.youtube.com/watch?v=93XFgcyaP6A


◎駐留米兵による事件が相次ぐ。(ジラード事件・米軍機母子殺傷事件)

*1957.1.30/ 群馬県の相馬ヶ原射撃場で、空薬莢拾いの農婦が米兵に射殺される。(ジラード事件)

*1957.8.2/ 茨木県のアメリカ軍射爆場で、離陸中の米軍機が超低空飛行のまま通行中の母子を直撃、母親は胴体を切断され死亡、息子も重症という事故を起こす。(米軍機母子殺傷事件)


 1957(s32)年1月30日、群馬県群馬郡相馬村の米軍キャンプ・ウェア演習場(通称・相馬ヶ原演習場)で、空薬莢拾いに来ていたの村内の主婦が米兵に射殺されるという事件が起こった。薬莢を拾う事を目的に演習地内へ立ち入った日本人主婦坂井なか(46)に対して、ウィリアム・ジラード三等特技兵(21)が背後から射殺した。ジラードは主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ(空薬莢あるよ)」と声をかけて、近寄らせてから発砲したと判明し、アメリカへの批判の声が高まり社会現象となった。

 事件はジラードの休憩時間に起こされたとして(公務中なら米軍管轄)、かろうじて日本の裁判を受けることになるが、殺人罪ではなく傷害致死罪で起訴され、懲役3年執行猶予4年という軽微な判決が下された。なお、1991年アメリカ政府の秘密文書公開では、ジラードへの処罰を最大限軽く(殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが判明している(ジラード事件)。


 また、同1957(s32)年8月2日には、茨木県の米軍水戸対地射爆場で、離陸中の米軍機が超低空飛行のまま通行中の母子を直撃、母親(63)は胴体を切断され即死、息子(24)も重症を負うという悲惨な事故が起こった。この異常な離陸についてアメリカ軍側は、異常気流が原因の不可抗力の事故であるとしたが、地元では米軍パイロットがわざと低空飛行を行い通行人を驚かしていたことが何度も目撃されており、今回の事件も同様なイタズラが招いた事故だとして、市議会は米軍に抗議文を提出した。

 茨城県警も操縦していたジョン・ゴードン空軍中尉(27)を業務上過失致死及び同傷害で水戸地検に書類送検したが、米軍側は、この事件は米軍の公務中に起きたものだとし、「日米地位協定」により日本側の第1次裁判権が放棄され捜査も終了した。遺族側には日本政府から40万円程度を補償するとしただけで、事態はうやむやに葬り去られた(米軍機母子殺傷事件)。


 近年、沖縄などの基地周辺で、米軍関係者による事件が起こるたびに「日米地位協定」の見直しが話題になる。さすがにジラード事件などの当時からはかなり改善されているとはいえ、米軍側にある種の治外法権を認めていることには違いはない。しかしそれ以上に、犬猫をもてあそぶかのように日本人主婦を殺したジェラードやゴードンのように、その心理の底に潜む傲慢な特権意識や差別意識が、今でも米軍基地周辺に住む人々には感じ取られているのではないか。沖縄の人たちの怒りは、このような皮膚感覚に基づいている根深いものだと思われる。


◎欧州経済共同体(EEC)条約が成立

*1957.3.25/ 欧州経済共同体(EEC)条約が調印される。


 現在の「ヨーロッパ連合(EU)」の歴史的経緯を単純に名称だけ並べると、「欧州石炭・鉄鋼共同体(ECSC) 1952」→「欧州経済共同体(EEC) 1958」+「欧州原子力共同体(Euratom) 1958」+(ECSC) →(三つをまとめて)「ヨーロッパ諸共同体(ECs)  1967」→「(ECs)改称により ヨーロッパ共同体(EC) 1993」、(ECを中核とし他の欧州機関を総合するものとして)「ヨーロッパ連合(EU) 1993」が成立した。 

 複雑な多国間交渉と各国による批准という過程をとるので、その流れを単純に説明するのはむつかしいが、まず最初に欧州の共同は、「欧州石炭・鉄鋼共同体(ECSC) 1952」として始まった。これは独仏間のアルザス=ロレーヌ地方が、鉄と石炭をめぐって何度も奪い合う係争地となったことなどから、共同市場化して戦争の因を絶つという観点から始まった。


 やがて欧州合衆国構想などが生まれてきたが、各国の事情の違いから、ますは関税同盟から市場統合という経済的な統合を目指すようになり、欧州経済共同体(EEC)設立のローマ条約が締結されるにいたった。EEC設立時の加盟国は、ECSC以来のフランス・西ドイツ・イタリア・ベネルックス3国の6ヵ国で形成された。

 イギリスはEECへの加盟を希望していたが、ときのフランス大統領シャルル・ド・ゴールは、イギリスをアメリカの手先と考え反対、イギリスは、EEC外の北欧諸国などと「欧州自由貿易連合(EFTA) 1960」を組み対抗することになる。しかしその経済的劣勢は歴然としており、1973年になってやっとデンマークとともにEFTAを脱退し1973年、EECに加盟することになる。今回のイギリスのEU離脱問題には、この時の経緯なども作用していると考えてよい。


 EECの広域市場化は、東西冷戦体制のもと、西側ヨーロッパの経済発展に大きく作用した。やがて東欧圏の崩壊とともに、EUとして政治的統合・通貨統合・加盟国の拡大に突き進む。しかし、このような多様な加盟国を抱合するという矛盾が、噴出しているのがEUの現状であろう。となれば、かつての米ソのように、強力な連邦政府と強大な軍事力を前提としなくては成り立たないのか。


◎ソ連 人工衛星スプートニク1号

*1957.10.4/ ソ連が、世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功する。


 1957年10月4日、世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功したと、ソ連が発表した。スプートニクは、ロシア語で「付随物」、転じて「衛星」を意味した。直径58cmのアルミニウム製の球体で重量は83.6kg、電波発信装置を搭載しており、その電波は世界各地で受信され、その成功が追認された。

 ソ連による人工衛星の成功は、冷戦で対立するアメリカに「スプートニク・ショック」を引き起こし、対抗して直後に打ち上げられたヴァンガード衛星の失敗とともに、その衝撃はアメリカの自信を喪失させるに充分であった。あわてて翌年1月31日エクスプローラー1号の打ち上げで追随するが、その重量はわずか14kg、両国の宇宙技術、とりわけ打ち上げロケットの推進力の格差は決定的であった。


 宇宙開発競争は、そのまま軍事技術開発競争であった。のち国連により「宇宙条約」が採択され宇宙の平和利用原則などが盛り込まれるが、事実上は骨抜きに近い。この時期スプートニクショックだけでなく、ソ連が戦略弾道ミサイル搭載潜水艦をアメリカに先駆けて配備し、8月には大陸間弾道弾(ICBM)の発射実験に成功するなど、軍事技術でアメリカが圧倒される出来事が相次いでいた。

 私はいま、知己であった故某哲学者(マルキストではない)の日記の整理などをしているが、この時期の日記には、近い将来ソ連がアメリカを凌駕して世界は共産化する、というような予測が書かれている。当時の多くの知識人がこのような認識で、それぐらい緊迫したものであったと思われる。


 さらにまた、1961年にソ連は、ユーリ・ガガーリンによる有人宇宙飛行を成功させる。これによって、ソ連との宇宙開発競争においての立ち後れは決定的となり、就任したばかりのJ・F・ケネディ大統領は、何ら確証がなかったアポロ計画を改定し、今後10年以内に人間を月に着陸させることを宣言した。

 かくして、米ソの国威を賭けた宇宙開発競争が始まり、アメリカでは軍事・科学・教育が大きく再編されることになった。このアポロ計画は、1969年のアポロ11号月面着陸成功によって達成され、米ソの宇宙開発競争は一段落し、冷戦の転機ともなったとされる。


(この年の出来事)

*1957.2.23/ 石橋湛山首相が病気のため辞任、25日、岸信介内閣が誕生する。

*1957.6.21/ 岸首相が訪米し、アイゼンハワー大統領と共同声明を発表。「日米新時代」をうたい上げるも、岸の念願の日米安保条約の改定は先延ばしとなる。

*1957.8.22/ ソ連が大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功する。(米は12.17に追随成功)

*1957.12.10/ 伊豆天城山で、元満州国皇帝溥儀の姪 愛新覚羅慧生が級友の男子 大久保武道と天城山でピストル心する。(天城山心中)


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