2020年11月12日木曜日

【20C_s3 1956(s31)年】

【20th Century Chronicle 1956(s31)年】


◎「週刊誌」ブーム

*1956.2.19/ 新潮社が「週刊新潮」を創刊する。(出版社系による初の週刊誌)


 戦前から新聞社系の週刊・旬刊雑誌はあったが、おおむね新聞のダイジェスト記事で、独自取材のものは少なかった。またこの前年に、ダイヤモンド社が「週刊ダイヤモンド」を創刊しているが、これは経済誌であり、出版社系の総合週刊誌としては「週刊新潮」が最初であった。文芸春秋社が59年4月に「週刊文春」で追随し、本格的な週刊誌の時代がやってきた。

 ほかにも講談社から「週刊現代(59年刊)」、小学館から「週刊ポスト(69年刊)」などの総合週刊誌が刊行されたが、これらはサラリーマンを主たる読者に想定し、ヌードグラビアやギャンブル・投資記事など、手っ取り早く色欲・金欲で刺激する戦略が見え隠れして、記事も比較的底が浅く感じられる。


 出版社系週刊誌の記事は、フリーライターやフリージャーナリストによるものが多い。当時「トップ屋」と呼ばれたフリーライターとして、週刊誌報道を確立したのは「週刊文春」の梶山季之だと言われる。彼は作家に転身し、「黒の試走車」など産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となった。

 「週刊誌的」といえば、ある種の否定的なイメージを含み、センセーショナリズム・スキャンダリズムを旨とし、記事の信憑性が低いと見なされ、いわゆる「イエロー・ジャーナリズム」と非難されることが多いが、良くも悪くもそれが週刊誌の利点でもあり特徴である。近年では、政治経済界のスキャンダルを独占スクープするなど、新聞やテレビでは追いきれない独自取材が大きな話題を提供することが多い。


◎フルシチョフがスターリン批判

*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。


 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議であったが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝・独裁政治・粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。

 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。


 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。

 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。

 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。


 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。

 1997年のモスクワ放送は、「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したとされる。



◎経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言する

*1956.7.17/ 経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表し、「もはや戦後ではない」は流行語となる。


 一般の人がまず読むことのない「昭和31年 経済白書(経済企画庁 年次報告書)」の結語で、「もはや戦後ではない」という一節が掲げられ、その響きのよい言葉は、またたく間にこの年の流行語となった。お固い役所の経済報告書であるにもかかわらず、その言葉はなんと、シェークスピアの翻訳などで名高い英文学者中野好夫の言葉からの借用だという。

 戦争で破壊され尽くした日本の産業が、この年には戦前の経済水準を回復した。そしてこの後20年間にもわたる高度成長の開始を高らかにうたい上げた言葉として、人口に膾炙してゆく。60年安保改正の政治の季節を経て、岸信介からバトンを渡された池田隼人首相は「所得倍増計画」を発表する。10年間での達成を目標とした野心的な倍増計画だったが、7年足らずではやばやと達成してしまう。


 この高度成長期には、私もその世代に該当するのだが、「団塊の世代」の小中高大学という学生期間がすっぽりと収まる。その将来を担う世代に、真面目に努力すれば素晴らしい将来があると、すんなりと信じさせた時代ではあった。しかし、70年安保の大学の混乱を通じて、もはや何が正しいかは言えないような状況に取り込まれた。そして私の場合には、卒業して社会に出たとたんに第1次石油ショックにみまわれ、営業職であるのに売るものがまったくないという状態に放り出された。

 華やかな高度成長時代の到来を告げたとされる「もはや戦後でない」という言葉も、実際の白書では別の文脈で用いられていたということだ。戦後の経済水準に達したということは、同時に日本の持つ潜在的成長力の伸びしろを使いつくしたということをも意味する。となれば、これからはまったく未知の経済状況と取り組んでいかなければならない、という当惑と抱負の入り混じった言葉として述べられたと言うことであったという。


 現に「神武景気」と呼ばれた好景気時代は終わり、翌年には「なべ底不況」という不景気が訪れる。ちょうど大学卒業をひかえた兄が、3月になっても就職が決まらず、鬱々としていた顔が思い出される。しかしその時期を脱すると、「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」と呼ばれた大型好景気が連なり、政府も「所得倍増計画」で高度成長をバックアップした。

 そしてこの年の末には、ニューヨークの国連総会で日本の加盟が承認される。かくして国際社会に復帰するとともに、名実ともに「戦後」は終わったと言えるのであった。


◎スエズ動乱/第2次中東戦争

*1956.10.29/ イスラエル軍がエジプトに侵攻し、スエズ戦争始まる。(スエズ動乱/第2次中東戦争)


 1869年、スエズ運河は、フランスの外交官だったフェルディナンド・マリー・レセップスの尽力により開通した。運河が開通すれば、ヨーロッパからアジアへいたる航路は、これまでのインド航路(アフリカ南端の喜望峰を回る)より40%も短縮され、ヨーロッパ諸国にとってきわめて利益の大きい運河計画であった。しかし、インド植民政策でもっとも利益を受けるはずのイギリスは、従来の独占的なインド航路の利益が脅かされるとして、反対し妨害工作さえした。

 レセップスは、エジプト太守の認可を受けて、万国スエズ運河株式会社(国際運河会社)を設立、スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡され、エジプトはイギリスの保護国となった。そして、運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点となり、その重要性は後の2つの世界大戦によっても証明された。


 スエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、イギリス軍はスエズ運河に軍隊を駐留させ、運河を実質的な管理下においた。一方エジプトでは、軍事クーデターが起こり共和制に移行、さらにナセルが大統領になると第三世界のリーダーの一人として、植民地主義を捨てられない西側に対抗するため、東側ソ連に近づく。こうした中、7月26日に、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言して、スエズ運河に利権を持つ英仏と対立することになった。

 スエズ運河に深く利害を持つ英仏は、シナイ半島やスエズに食い込むことを狙うイスラエルを巻き込み、10月29日、イスラエルがシナイ半島に侵攻、英仏が空軍で支援する形で戦端は開かれた。圧倒的な近代化部隊で、英仏イスラエル連合はスエズ運河直前にまで迫り、エジプトの降伏が間近に迫ったとき、両陣営の背後で冷戦で対立する米ソが、互いに前面に出ることをさけるために調停に乗り出し、国連総会で即時停戦を求める決議が採択された。


 結果、得ることのなかった英仏及びイスラエルに対して、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した上に、ナセルは英仏イスラエルと正面から戦ったことから、中東での発言力を確固たるものとした。さらにナセルは、国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し、エジプト主権のもとスエズ運河の通航を再開した。

 なおこの時、当方は小学2年生、世界の出来事には無縁な学童に過ぎなかったが、「スエズ動乱」という言葉はかすかに記憶されている。朝鮮戦争はまったく記憶にないので、遠くの世界では戦争というものが起きているのだなと思った最初の経験であった。


(この年の出来事)

*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。

*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)

*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。


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