【20th Century Chronicle 1913(t2)年】
◎大正政変 憲政護憲運動が閥族内閣を打破
*1913.2.5/ 桂内閣糾弾で、数万の民衆が議事堂を取り囲む。再開された議会では、政友会・国民党が、桂内閣不信任案を提出すると、桂首相は再度5日間の停会命令をだす。
*1913.2.10/ 桂内閣が内閣総辞職を決意、3日間の停会命令をだす。たび重なる停会に、群衆は激怒して、政府系新聞社や警察を襲撃し、翌11日、桂内閣は正式に総辞職。
*1913.2.20/ 山本権兵衛海軍大将が、首相に就任する。
1901(明34)年以来、陸軍大将 桂太郎(長州藩出身)と、立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が、交互に政権を担う慣例が続き、桂園時代と呼ばれた。1911(明44)年8月には第2次西園寺内閣が成立していたが、二個師団増設問題で陸軍と対立、陸軍は上原陸相を辞任させ、後継の陸軍大臣を送らず、西園寺内閣は崩壊した。
この西園寺内閣の崩壊は、陸軍と藩閥政治家 山縣有朋の横暴であるという批判が高まった。1912(大1)年12月19日、実業家有志などの発起で第1回「憲政擁護大会」が開かれ、「閥族打破・憲政擁護」を決議した(第1次護憲運動)。
元老会議が後継首相を選定するにあたって、有力候補者が政権運営の困難を嫌って辞退するなかで、山縣によって内大臣兼侍従長として宮中に押し込められていた形の桂太郎が、首相就任に意欲を示したため、元老会議は桂を指名せざるを得なかった。こうして1912(大1)年12月21日、桂太郎が首相に就任することとなり、第3次桂内閣が発足した。
1913(大2)年になると、憲政擁護を叫ぶ大会が地方各地に広がり、日露戦争後の負担増で疲弊した商工業者や都市民衆が多数これに参加した。1913(大2)年1月20日、桂首相は新党の設立を発表したが、山縣の不支持などで思惑どおり進まず、議会を停会するなど議会の開催を引き延ばした桂内閣の処置により、憲政擁護はより過熱していった。
桂首相は、明治天皇の服喪期間で政争を中止するように諭す大正天皇の詔勅を受けて、これを利用して政府批判を封じた。桂の工作は各方面からの反発をまねき、さらに追い詰められていったが、この間、立憲政友会と立憲国民党の野党提携が成立し、1913(大2)年2月5日、再開された議会で、政友会や国民党の野党が内閣不信任決議案を提出すると、桂首相は再度5日間の停会命令をだす。
1913(大2)年2月10日の憲政擁護第3大会には、数万人の民衆が議会を包囲するなかで桂は帝国議会の開会をむかえ、内乱も考えられる危機の状況で、桂は辞任するつもりで停会を命じると、憤激した民衆は暴動となって警察署や政府の御用新聞社などを襲撃し、全国の拠点都市にまで飛び火した。
翌実1913(大2)年2月11日、桂内閣は発足からわずか2ヵ月足らずで総辞職し、政党内閣の実現を望まない山縣は西園寺に再組閣を求めるが、健康上の問題を理由として拒絶され、薩摩閥の元老大山巌の支持で、元老会議は海軍の重鎮で薩摩閥の山本権兵衛を推薦した。衆議院に支持基盤を持たない山本に対して、政友会の原敬がいち早く支持に動き、第1次山本内閣は閣僚6人が政友会党員が占める実質的な政友会内閣となった。
桂内閣の打倒は、民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例であり、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すきっかけとなり、これ以後、政党内閣制や普選運動などの大正デモクラシーの流れができていった。
◎「T型フォード」
*1913.4.1/ 大衆車「T型フォード」が量産体制にはいり、ベルトコンベヤ方式による分業を導入する。
1908年に発売された「フォード・モデルT」は、この年1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。それまで数人の熟練工の手作業で、数日かけて完成車にしていたが、ベルトコンベアによる流れ作業による分業化にするには、単にコンベアを導入すればよいというものではなかった。コンベアの流れる時間に合わせて、人員配置から部品の規格化まで、すべて「システム」として同期させなければならない。
部品の簡素化・内製化、流れ作業による未熟練工員の間での分業化により、車体1台当たりの組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超えた。1908年の初生産から1927年まで、T型フォードは、基本的なモデルチェンジのないまま、通算で1,500万台が生産された。これに相当するのは、2,100万台以上を生産されたという、後年のフォルクスワーゲン・タイプ1(通称ビートル)のみである。
ヘンリー・フォードが作り上げた大量生産、大量消費という生産販売システムは、現代の資本主義を象徴するモデルとなり「フォーディズム」と呼ばれる。それは、大量生産できる高効率の工場設備、従業員のモチベーションを高める高給料、一台当たりの生産コストの革新的な低減などを組み合わせた画期的な方式であった。それは単なる工場管理法にとどまらず、フレデリック・テイラーの提唱する「科学的管理法」を採り入れた総合的マネジメント・システムでもあった。
「フォーディズム」は自動車業界にとどまらず、20世紀における労働、経済、文化、政治などの各方面に多大な影響を及ぼした生産活動であった。しかし、充分な機能の車を低価格で提供すればよいというヘンリー・フォードの考え方は、時代の流れの中で劣化していった。一方、フォード社のライバル、ゼネラルモーターズ社(GM)は、消費者のニーズに合わせた多品種の車種を生産し、割賦販売を導入するなどして、黒色ボディ一色にこだわり続けた実用車T型フォードを圧倒していった。
結局、フォーディズムも科学的管理法も、究極的に効率を追求するシステムであった。そこでは、機械や部品と同様に人間も効率性の下に評価される。機能が優れて低価格ならば顧客は満足する、賃金が高ければ従業員は充足する、しかしこの考え方は、生活に余裕が出始めた労働者や消費者には通用しなくなる。また、いかに高賃金であろうとも、長時間を単純作業で過ごす従業員は耐えられなくなる。
さまざまなニーズの消費者に向けて、自動車ディーラーの店頭には多品種のカラフルな車が並び、製造工場でも、ベルトコンベア方式を廃したボルボ社カルマール工場の生産実験が、経営学の話題に上るなど、人間をシステムの一つのモジュールとして扱う側面が批判された。しかし、効率性の追求は資本主義の基本原理であり、その中で、消費者のニーズをいかにつかむか、従業員のモチベーションをいかに高めるかが、マネジメントの世界では追及され続けている。
チャーリー・チャップリンは「モダン・タイムス」で、機械の一部分となる労働者を描くことで、資本主義社会や機械文明を痛烈に風刺している。さすがに現在では、このような状況は解消されたかに見えるが、資本主義社会であるかぎり、人は「効率」という指標にさらされ続けていることに変わりはない。
テイラー科学的管理法やフォーディズムのアンチテーゼとして、経営学教科書に必ず出て来るのが、戦前の有名なウェスタン・エレクトリック社「ホーソン工場研究」と、戦後ではボルボ社「カルマール工場実験」だ。これらの実験では、作業に関わる労働者のモチベーションが重要であることが明らかになった。
科学的管理法は、人間を物理的客観的にとらえて作業効率を図ろうとする。ホーソン実験も当初は、作業条件と作業効率の関係を調べる目的で始められた。しかし当初の想定と違って、作業環境を悪くしても、実験の作業効率は上がり続けた。その結果、実験で注目されているという作業者の「モチベーション」が、能率を高めているのだという結論を得た。
戦後の1970年代、スェーデンのボルボ社カルマール工場では、労働者の主体性を尊重するという労使間の合意により、非人間的なベルトコンベア・システムを廃止した。いくつかの工程を一ヵ所に定め、工員数人から成る作業チームで一台を組み上げてゆくという生産方式を採用した。これは労働者に歓迎され、生産技術者らの注目を集めるたが、やはり一方では、一台の生産にかかる労働コスト高騰によって、価格競争力を失った。
つまり、労働者の意欲は高まって充足されたが、生産効率は、コンベア・オートメーションには劣ったということだ。しかし結果的には、ボルボ社は高級車にシフトし、そのブランド力を獲得した。これは、T型フォードの時代には成り立たず、戦後の経済が確立して、消費者が豊かになり、単なる価格より品質重視の選択をするという状況が出来てきたからであった。
◎「ハリウッド」の誕生
*1913.12.-/ シネマの新天地「ハリウッド」へ。何もなかったロサンゼルス郊外の片田舎で、西部劇の撮影が始まる。
ロサンゼルス郊外の片田舎ハリウッド(Hollywood)に、映画製作会社が造られ映画の撮影が始められた。米のエジソンや仏のリュミエール兄弟などに発明された映画は、この時期は黎明期にありニューヨークやシカゴが中心地であった。しかし、多くの映画関連の特許をもつ発明王トーマス・エジソンは、アメリカの大手映画会社を糾合し、「映画特許会社」(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー"MPPC”)を設立、別名エジソン・トラストと呼ばれた。
MPPCはアメリカ国内での映画製作・配給を独占し、ヨーロッパ映画が先行していた状況を終わらせ、アメリカ映画の配給・上映の方式を標準化するなど、アメリカ映画の質を高めて競争力を強めることに寄与した。しかし、映画撮影機器からフィルムまでMPPCが独占管理し、高額の特許料が請求されたため、トラストから排除された中小の制作者らは、管理の目が行き届かない新天地ハリウッドへと移転していった。
西海岸ロサンゼルスのハリウッドは、温暖な気候風土で降雨も少なく映画製作に適していた。新興の映画製作に情熱を燃やす映画関係者たちは、古いしがらみを逃れて、続々とハリウッドにやって来た。また、後発移民でまともな仕事から排除されたイタリア系・アイルランド系・ユダヤ系などは、その出自を問わないハリウッドでクリエイターや出演者としての才能を発揮した。
さらに、のちにハリウッドのメジャースタジオと呼ばれる大手映画製作会社は、他のビジネスから排除されたユダヤ系移民たちによって展開された。ユニヴァーサル、パラマウント、フォックス、ユナイテッド・アーティスツ、ワーナー・ブラザース、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、コロムビア映画、RKO等々、ほとんどがユダヤ系資本によって設立された。
このように、才能を秘めた若者たちが、情熱をもってハリウッドを目指した様子は、まさにアメリカン・ドリームを支えた「西部劇」の世界であった。また近年、IT産業の集積で世界にとどろいたシリコンバレーなども、この時期のハリウッドの様子と重なる。物理的なフロンティアは西海岸に達しても、このような新しいイノベーションが、新たなビジネス界の「フロンティア」を拡張し続けてきた。
ある意味では、新たな「移民・難民・不法入国者」自体が、つねに新しい「フロンティア」を形成して、アメリカに活力を注入し続けるのが、アメリカそのものではないかと思われる。それを「閉ざす」というのは、歴史的な悔恨をアメリカにもたらすのではないか。
ハリウッドにも暗黒の時代があった。戦後冷戦体制が成立すると、共和党マッカーシー上院議員による「赤狩り」の嵐が吹き荒れた。その嵐はハリウッドにも及び、多くの映画関係者が「共産主義者」の嫌疑を掛けられた。俳優労働組合の委員長であったロナルド・レーガンが、仲間の組合員を売り渡す証言をしたり、ジェームズ・ディーン出世作「エデンの東」の名監督エリア・カザンが、司法取引で友人の映画関係者を共産主義者と証言するなど、ハリウッドは内部分裂状態におかれた。
そのせいもあり、現在もハリウッド関係者には共和党不審が強く、俳優組合など中心にリベラルな民主党支持者が多いという。だが一方で、愛国的でアメリカ精神を高揚させるような映画製作も多く、共和党支持者もそれなりに存在する。演技派、有色人種、女優に民主党支持者が多く、アクション大作のビッグネームには共和党支持者が多いとされる。トム・ハンクス、レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペンに対して、クリント・イーストウッド、アーノルド・シュワルツェネッガー、シルベスター・スタローン、ブルース・ウィリスなどを並べてみると、けっこう笑えたりする。
(この年の出来事)
*1913.3.10/ 柳田国男らが、月刊の民俗学研究誌「郷土研究」を創刊する。
*1913.9.7/ 独・墺・伊「三国同盟」を強化し、英・仏・露の「三国協商」に対抗。
*1913.10.11/ 日本統治下の台湾で「独立蜂起計画」発覚。指導者ら20人、死刑に。
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