【20th Century Chronicle 1914(t3)年】
◎シーメンス事件
*1914.1.23/ ドイツのシーメンス社が、日本海軍高官に贈賄していたことが発覚、政治問題化。
*1914.2.9/ シーメンス事件に関連して、沢崎寛猛海軍大佐、3.31には呉鎮守府司令長官松本和が逮捕される。
*1914.2.12/ 衆議院が海軍拡張比3,000万削減、3.13貴族院はさらに4,000万削減を可決する。
*1914.3.24/ 予算案不成立の責任を取って、第1次山本権兵衛内閣が総辞職する。
*1914.5.11/ 海軍大将 山本権兵衛と斎藤実が、シーメンス事件の責任で予備役に編入される。
シーメンス事件とは、ドイツのシーメンス社による日本海軍高官への贈賄事件である。ヴィッカース社への巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。1914(大3)年1月に発覚し同年3月には、海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。
海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社や軍需産業の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店と癒着を起こしやすかった。
明治末期から大正初期にかけては、憲政擁護と藩閥軍閥に対する批判が高揚した時期であり、軍の経理問題にも関心が高くなってきており、前年の1913(大2)年には「大正政変」・「第1次護憲運動」で長州閥と陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。
この事件は、長州閥・陸軍の大御所 山縣有朋とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説がある。長州閥で陸軍大将でもあった桂太郎の第3次桂内閣が、護憲運動の高まりで倒れたあと、日本海軍育ての親と称される山本権兵衛が首相となった。山本権兵衛は、陸軍の二個師団増設案を拒否し、一方で海軍の艦隊建設予算を計上していた。さらに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、イギリス海軍に対抗して海軍拡張を進めており、日英同盟のもとで、日本海軍が増強されるのは、ドイツ東洋艦隊の脅威と感じていた。
シーメンス横浜支配人などから、シーメンスは入札情報を事前に入手し、競合するイギリスの軍需メーカーなどより有利に入札、海軍関係の装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。シーメンスは当時の慣例に従って、発注品代金の一部を手数料として海軍に支払っていたが、この謝礼金のほとんどが、海軍の秘密口座や日本海軍高官のもとに渡っていた。
この事件は、シーメンス社員のカール・リヒテルが、この謝礼を示す秘密書類を会社から盗み出し、それを基に社を脅迫したことから発覚した。シーメンス社はもみ消しを図ったが、ドイツ官憲が事件を把握しており、リヒテルは逮捕され、ベルリンで裁判を受けることになった。その際、日本海軍高官への贈賄に関する資料が開示され、これを新聞社が一斉に報道したため、議会でも海軍が追及されることになった。
1914(大3)年1月23日、野党の立憲同志会 島田三郎がこれを取り上げ、さらに尾崎行雄らも、山本内閣の倒壊を目的として腐敗を追及した。内閣と海軍は劣勢に追いやられ、海軍内部には査問委員会が発足され、関わった藤井光五郎少将、沢崎寛猛大佐らを軍法会議にかけられた。さらに巡洋戦艦金剛の発注に絡むヴィッカース社との不正も発覚、松本和中将が軍法会議にかけられた。
1914(大3)年2月12日、衆議院は海軍予算の3,000万円削除を可決し、さらに3月13日、貴族院は海軍予算7,000万円削除を決める。予算案は不成立となり、3月24日に山本権兵衛内閣は総辞職した。松本中将・藤井少将・沢崎大佐は懲役・科料刑、山本権兵衛前首相、斎藤実前海相は予備役編入処分を受けた。
後継の第2次大隈内閣は、海軍粛正の声に押されて改革を断行、5月11日には山本前首相及び斎藤実前海相を予備役に編入した。しかし、折から第1次世界大戦の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結した。産業界と軍部との癒着構造の追及は為されないままに終わったとする意見のある一方で、全く無実の山本権兵衛と斎藤実を予備役編入したことで、海軍の発言力を衰退させ、陸軍主導で軍が肥大する遠因となったとする見解もある。
◎サラエボ事件
*1914.6.28/ オーストリア皇太子夫妻、暗殺される。大戦の引き金をひいた銃声2発。(サラエボ事件)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、「サラエボ」(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人青年によって暗殺された。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたが、隣国の「セルビア」はかつての領土の回復を目指しており、これに呼応するように、ボスニア内のセルビア人住民にも、オーストリア支配への反発が高まっていた。そんな中、オーストリア皇位継承者フェルディナント大公夫妻がサラエボを訪れることになり、セルビア系の民族主義的な青年グループが暗殺を企てたのだった。
バルカン半島は、古くから諸民族、諸宗教が入り乱れてモザイク状になった複雑な地域で「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。古代以来のローマ・ラテン系、ギリシャ系に加えて、ゲルマン系、スラブ系が、それぞれさらに細かに分岐した民族に分れて定住し、さらに中世以来「オスマントルコ帝国」が支配し、トルコ人が流れ込んでいた。
諸民族に重なるようにして、宗教もローマカトリック、ギリシャ正教、ロシア正教、そこへイスラム教が加わり、さらにそれが諸流派に分かれて浸透している。それらの複雑な地域を、オスマン大帝国が束ねる形で支配していたが、その勢力が衰えるに従い、地域内には民族主義が高まり、一部民族は独立を勝ち得ていった。
抗争する諸民族の後には、オスマン帝国の再生を目指す汎トルコ主義のトルコ、汎スラブ主義で南下を目指すロシア、そして西方から拡張をはかるオーストリア=ハンガリー帝国など大国が控えており、それらの力が大きな緊張状態を引き起こしていた。そんな中で、「露土戦争」や3次にわたる「バルカン戦争」などの紛争が頻発し、各国の国境線は頻繁に書き換えられる。そのような一触即発の「火薬庫」でサラエボ事件が火を噴いた。
オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第1次世界大戦に発展することになる。当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあったため、サラエボ事件を契機に、各国の軍部は敵国の侵略に備え総動員を発令した。各国政府は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展した。
サラエボは、東欧共産圏の崩壊と連動して、第2次大戦後に成立した「ユーゴスラビア連邦」が解体される過程でも、深刻な内戦に見舞われた。旧ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが、ユーゴの中心勢力であったセルビア共和国から分離する独立戦争という形で内戦となった。
中でもセルビア寄りに位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、最も大変な内戦を経ることになる。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言するが、時の住民約430万人のうち、44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と、異なる民族が混在していた。独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人に対して、1/3を占めるセルビア人は、セルビアに戻って合体することを主張し、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」と呼ばれた内戦となる。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた「サラエボの花(2006)」は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。
◎第1次世界大戦
*1914.7.28/ オーストリアがセルビアに対して宣戦布告、第1次世界大戦が勃発する。
サラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、第1次世界大戦が開始された。当初は、関連諸国に世界戦に拡大するという認識は薄かった。しかしその背景には、一触即発で世界大に広がる複雑な構図があった。
直接にはオーストリアとセルビアであったが、オーストリアの後ろにはドイツ帝国があり、セルビアには汎スラブ主義を進めるロシア帝国があった。そしてさらに各国は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国)と、三国協商を形成していた英・仏・露を中心とする連合国(協商国)と、2つの陣営に分かれ対立した。
さらに日本が日英同盟を理由に参戦し、イタリア、アメリカも連合国側として参戦する。そして、それら列強が世界中に植民地展開していたため、植民地間での戦闘も含めて、またたくまに世界を巻き込む戦争となった。一般では戦争が早期に終結するものと楽観されていた。
しかし、当時の進化した機関銃の組織的運用等により、防御側の優位の状況が生じ、「塹壕戦」による持久戦が主流となり、戦線は膠着し戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は、国民総動員体制をとり、国民経済のすべてを投入する「国家総力戦」を強いられ、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。
協商国側は海上封鎖で、同盟諸国の植民地との連絡を断つ戦略を展開し、経済を疲弊させた。1918年にはオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解、ドイツでも、キール軍港での水兵の反乱で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争では900万人以上の兵士が戦死し、その人的被害、経済的被害は、史上初の世界大戦として記録された。
第1次大戦の結果、戦敗国であるドイツ、オーストリアは当然のこと、戦勝国側のイギリス、フランスも国力が疲弊し、やがてヨーロッパ諸国に代ってアメリカが世界の中心に登場する原因となった。またロシアでは、大戦末期にロシア革命が起り、内戦状態となり、終戦をまたず離脱することになった。
第1次大戦を舞台にした映画は数多くある。激戦の戦場を描いたものは多いが、直接の戦闘は描かれないものの大戦を背景にしたものとしては、「アラビアのロレンス」"Lawrence of Arabia”がある。これはイギリスの諜報将校として、アラビア人の世界に入りこみ、アラビアの独立に協力するロレンスを描く。
(追補)
イギリスの「三枚舌外交」は、以下の三つの協定に集約され、それぞれ、アラブ・フランス(+ロシア)・ユダヤの利害に配慮した。その相互矛盾がのちの中東問題の起点となった。
1. 1915年フサイン=マクマホン協定(アラブの独立国家)
2. 1916年5月サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定)
3. 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設)
オスマントルコが束ねていた地域が、小トルコとそれ以外に分割され(1)、その残余部分が西欧列強によって勝手に分割され(2)、ユダヤ資金と引き換えに、後のイスラエル建設に暗黙の了解を与えた(3)。まさに現在の中東地図に描かれる状態を準備したことになる。
ロレンスは1の実現を目指し工作を進めたが、2・3によって、まったく別の中東世界が形成されることになる。英の「一枚目の舌」に乗っかって、その命に従ってアラブ人を鼓舞したが、結果は空しかった。
◎マルヌの戦い
*1914.9.6/ 「マルヌの戦い」にフランス勝利、独軍のシュリーフェン・プラン破綻する。
オーストリアがセルビアに宣戦布告した時、ドイツは三国同盟に基づき相談を受け、セルビアへの強硬論を推していた。開戦を見て、セルビアをバックアップするロシアは、ただちに総動員令を布告した。ドイツは、かねてからロシアとフランスを仮想敵として、二正面戦争解決の手段としてシュリーフェン・プランを温めていた。
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争対策として、フランスを先制攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを叩くという作戦を立案した。この「シュリーフェン・プラン」は、西部戦線の中立国ベルギーとオランダを経由し、フランス北部から仏軍主力の背後に回り、包囲殲滅するというものであった。
ロシアの総動員体制を受けて、ドイツはシュリーフェン・プランを発動させ、8月1日総動員を下令、同時にベルギーに対し無害通行権を要求した。さらに翌2日にロシアに対して宣戦布告し、3日にはフランスに対して宣戦布告した。
1871年の普仏戦争の敗北により、フランスはアルザス=ロレーヌ地方を失い、屈辱へのリベンジに備えて、ドイツ国境に兵力を増強していた。ドイツ軍がベルギーに侵攻すると、フランス軍も戦前に立案されたプラン17に従って、アルザス=ロレーヌやアルデンヌの森を通って反攻を開始して、独仏の攻防が開始された。また、ほぼ同時にイギリスも、独軍のベルギー侵攻を受けて参戦した。
ドイツのベルギー侵攻に対して、ベルギー、イギリス、フランス軍が対抗したが、やがてドイツ軍は徐々に侵攻を進め、9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川にまで迫った。一方フランス軍は、一旦退却してマルヌ川南方に防衛線を敷いてドイツ軍を迎撃する。
マルヌ川渡河を目前にして、ドイツ軍の最前線は戦端が伸び切り疲弊していた。川の手前で防御線を敷くことにしたドイツ軍に対して、反攻作戦に出たフランス軍との間で激戦が展開され始めた。ドイツ軍が西のパリ方面に向けて反撃に出ると、仏軍はパリの予備役を、ルノーのタクシーを使った史上空前の輸送作戦を実施、なんとか持ちこたえたという。
マルヌ会戦は、戦局の決定的な転換をもたらさなかったが、その後の戦争の性格を決定づける戦いとなった。両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、「海へのレース」と呼ばれ、スイスアルプスから北海の海岸線まで繋がるほどであった。攻撃には、いまだ銃剣突撃などの戦法が使われ、それを塹壕にこもり、機関銃や砲撃で防御する側の圧倒的優位が揺るがず、戦線は長期消耗戦の様相を呈した。
1914年の開戦時、戦争の先行きは楽観視されていた。普仏戦争以来約40年ぶりとなる大規模な戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿の残像が残され、多くの若者たちは、戦争に高揚した気分で戦線へ出て行った。オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは、その当時の兵士たちの気持ちを、次のように描き出している。
《あの頃は、人々はまだ疑うことを知らなかった。ロマンにあふれた遠足・・・。荒々しい、男らしい冒険・・・。戦争は3週間。出征すれば、息もつかぬうちにすぐ終わる。大した犠牲を出すこともない。私達は、こんな風に1914年の戦争を単純に思い描いていた。クリスマスまでには家に帰ってくる。新しい兵士たちは、笑いながら母親に叫んだ。「クリスマスに、また!」》
フランスでもまた、この戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、「ラ・マルセイエーズ」を高唱し、アルザス=ロレーヌ奪還に燃えていた。それが、足かけ5年にわたる戦争となり、900万人以上の兵士が戦死する総力戦となり、世界を巻き込む最初の大戦争となるとは、だれも想像し得なかった。
(この年の出来事)
*1914.4.16/ 第2次大隈内閣が成立。外相に副総理格で加藤高明就任。
*1914.8.15/ 苦難30年、パナマ運河開通し、大西洋から太平洋へ航行可能に。
*1914.10.14/ 日本海軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、11.7には日本陸軍がドイツの拠点の青島要塞を陥落させる。
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