【19th Century Chronicle 1897(m30)年】
◎俳句雑誌「ほとゝぎす」創刊・「言文一致体(口語文)」の創出
*1897.1.-/ 正岡子規や柳原極堂らが、松山で俳句雑誌「ホトトギス(ほとゝぎす)」を創刊する。(翌年10月東京に移転し、高浜虚子が継承して主宰)
1897(明30)年1月、正岡子規が主宰となって、子規の故郷松山で、友人の柳原極堂によって、俳誌「ホトトギス」が創刊された。「ホトトギス」には正岡子規を筆頭に、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが選者として集った。翌年10月には、場所を東京に移して、高濱虚子を主宰として継承された。
正岡子規は、近世以来のそれまでの俳諧を「月並俳諧」として排し("月並み"という言葉は、ここから来ている)、「写生」を作句の根本に置き、ありのままの実感から生ずる新しい詩美の表現を提唱した。それまでの「発句・俳諧」を「俳句」と言い換え、独立した近代的な短詩表現として子規の活動は、俳句革新運動とされ一躍俳壇の主流となった。
「子規(ホトトギスのこと)」という俳号は、当時死病とされた肺結核で喀血したことから、「鳴いて血を吐く(赤いくちばしが、そう思わせる)」と言われるホトトギスに自分を重ね合せたところから来ている。日清戦争に従軍記者として派遣されるも、すぐに終戦となり、帰国の途の船中で大喀血して重態に陥った。
療養を兼ねて故郷松山に帰り、病をおして「ホトトギス」の活動を進めたが、松山中学に赴任していた東大予備門同窓の夏目漱石も居て、漱石の下宿に同宿して句会を開くなど、交友を深めた。このような縁で、後年、高濱虚子の勧めで「ホトトギス」に、漱石は「吾輩は猫である」「坊っちゃん」を発表して、作家に転身する機縁となる。
正岡子規は、短歌においても「歌よみに与ふる書」を新聞に連載し、古今集を否定し万葉集を高く評価して、素朴な生活感を力強く歌う万葉の写実性を称揚した。さらに、俳句・短歌の韻文詩だけでなく、絵画の「写生(スケッチ)」の概念を応用して、広く散文にまで「写生文」を提唱した。
子規の死後、俳句の世界は後継の高濱虚子と河東碧梧桐によって方向が分かたれたが、散文の分野では、共に写生文に力を注いだ。写生文は、当時の「言文一致体」運動と微妙に交錯する。言文一致体は、それまでの文語文が、近代世界の現実を叙述するのに向いていないという、時代の要請から始まったものであるが、「話し言葉を、そのまま文字言葉(文章)にする」というような単純な作業ではあり得えなかった。
二葉亭四迷や山田美妙は言文一致の新文体を模索したが、当初は話し言葉を書き言葉に写し取るという考えで始められた。当時人気の三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたりして、江戸弁をもとにした文章を書いてみたが、とても読めるような文章にならなかったという。
そもそも当時「標準語(共通語)」などと言ったものはなく、江戸弁もひとつの方言に過ぎなかった。逆に、その後の文筆家たちの努力で、まったく新規に「口語文」ができ上り、後に、それを元にして書かれたニュース記事を、ラジオ放送のアナウンサーが読むという形で、全国版の「共通語」となっていったというのが事実なのである。
一方で、子規らが唱えた「写生文」は、音声言葉を写し取るという発想ではなく、芭蕉の時代からの「俳文」の存在を前提に、新しい俳文を作るという意識の下で始められた、あくまでも「文章(書き言葉)」の創出運動であった。絵画の「写生(スケッチ)」の概念を援用して、見たまま・聴いたままを「文に写し取る」という文章術であった。
二葉亭四迷の言文一致体の嚆矢とされる「浮雲」でも、当初は江戸弁ベースを試みたがうまくいかず、二葉亭の本業であったロシア語の翻訳からヒントを得て、一旦「浮雲」をロシア語で書いて、それを日本語に訳し変えるという操作をしたという。すなわちロシア語(西欧語)の骨格をもとに、新たな日本語文を創出したわけである。
つまり、四迷や美妙が当初試みた「音声言葉」を「文章言葉」に移し替えるという操作ではなく、「言文一致運動」とは全く別の文脈で始められた、子規らの「写生文運動」は、最初から「新しい文体創出」という視点を持っていて、「言文一致」という言葉づらに捉われないで済んだことになる。
そして、高濱虚子らが継承した文芸雑誌「ホトトギス」誌上に、「写生文」の試みとして「吾輩は猫である」「坊ちゃん」が掲載され、やがて「文豪夏目漱石」を誕生させることになった。若くして結核で世を去った正岡子規は、俳句や短歌の革新とともに、より広く「口語文」という、日本語近代文体の創出において多大な寄与をした文人として着目されるべきであろう。
◎尾崎紅葉と硯友社
*1897.1.1/ 尾崎紅葉が「金色夜叉」を、読売新聞に連載始める。
「金色夜叉」は、1897(明30)年1月1日より1902(明35)年5月11日まで、読売新聞に連載された「尾崎紅葉」の小説で、前編・中編・後編ほか全6編が掲載されたが、作者が死亡したため未完成に終わる。たびたび新派劇など舞台演劇ほか、映画化・ドラマ化されてよく知られている。
「貫一(間貫一)」とその許婚「お宮(鴫沢宮)」の、恋と金をめぐる愛憎劇であり、寛一が「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」と慟哭し、お宮を足蹴にする場面があまりにも有名になっている。しかしこれは、演劇化され人口に膾炙するようになった時に、舞台台詞(セリフ)として簡略化されたもので、原著では、貫一が長々と繰り言を言い続ける末尾に出てくる言葉である。
金色夜叉(青空文庫) http://www.aozora.gr.jp/cards/000091/files/522_19603.html
尾崎紅葉は、東大予備門のときから文学にふけり、山田美妙らとともに「硯友社」を結成して、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊した。やがて美妙とは袂を分かつが、「我楽多文庫」は活版化されるとともに、近代日本最初の文芸誌とされる。
その後、紅葉は「二人比丘尼 色懺悔」を書き下ろし刊行し、戦国時代に材をとった二人の比丘尼の邂逅という物語性と、会話は口語体、地の文は流麗な文語文という「雅俗折衷」の文体は、新しい文学のあらわれとして好評を博し、一躍流行作家となった。
紅葉は読売新聞社に入社すると、「伽羅枕」「三人妻」などを次々と発表して人気を博し、幸田露伴と合せて「紅露時代」と呼ばれ、若くして明治期の文壇の重鎮とされた。写実主義を意識しながら擬古典主義を深め、一方で言文一致体を試みるなどしたが、やがて「源氏物語」を読み、その影響下で心理描写に主を置くようになり、「金色夜叉」の連載を始めた。
若くして才能を発露させた尾崎紅葉であるが、1903(明36)年、「金色夜叉」の続編を連載中に、37歳で没する。一方、同年代の夏目漱石は、その翌年にやっと「吾輩は猫である」を執筆し、作家としてスタートする。漱石や鴎外は今でも広く読まれるが、尾崎紅葉の原典を読む人はほとんど居ないと思われる。紅葉の名は、舞台での貫一のセリフのみで記憶にとどめられている。
尾崎紅葉の率いた「硯友社」は、古典回帰の積極的復古主義と娯楽性を追求した通俗性がモットーであった。紅葉自身、「雅俗折衷」としつつも、基調は擬古文を下敷きにした華麗な美文であり、その後の自然主義文学などの言文一致体からすると、逆に古くさいものとされるようになった。
また、お宮貫一に見られるような「心理描写の類型化」や「立ち居振る舞いの様式化」は、旧来の歌舞伎などの伝統を継承しており、それが舞台などのシーンには適していても、近代個人の心理描写や行為行動を描き出すことはできなかった。つまり、人気を博した要因は、その一般大衆に分かりやすい「類型化・形式化」にあったわけで、それが娯楽的通俗性でもあった。
そのような評価を受けて忘れられた尾崎紅葉や硯友社文学も、近年、三島由紀夫らによって再評価が為されている。古典主義・心理的類型化・様式美などは、いかにも三島らしい再評価であるが、尾崎紅葉の文学が、浪漫主義の「文学界」から自然主義的私小説へとたどった狭隘な日本文学においては、その主流に位置付けられることはなかった。
(この年の出来事)
*1897.3.3/ 足尾銅山鉱毒被害の800人が渋谷に集結し、農商務省などに鉱毒阻止を陳情する。
*1897.6.20/ 高山樗牛が雑誌「太陽」に「日本主義を算す」を発表し、日本主義を唱道する。
*1897.6.22/ 京都帝国大学が設立される。(これまでの帝国大学は、東京帝国大学に改称)
*1897.12.25/ 松方正義内閣が、各党連合により不信任決議案を上程され、衆議院を解散し、28日には内閣が総辞職する。
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