2020年8月27日木曜日

【19C_m3 1896(m29)年】

 【19th Century Chronicle 1896(m29)年】


◎乙未事変後の朝鮮と大韓帝国

*1896.2.11/ 朝鮮国王と皇太子が、ロシア公使館に脱出する。

*1896.2.21/ 山県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2二世の戴冠式出席と朝鮮問題交渉のため、特命全権大使に任命される。

*1896.5.14/ 朝鮮駐在公使の小村寿太郎が、ロシア公使ウェーバーと朝鮮問題に関する覚書(国王の王宮帰還など)に調印する。(小村・ウェーバー覚書)

*1896.6.9/ 山県有朋全権大使とロシア外相ロバノフが、朝鮮に関する議定書に調印する。(山縣・ロバノフ協定)


 乙未事変の後、日本の影響下で近代化を進めようとした金弘集内閣に対して、親露派はロシアの支援を受けて逆クーデターを起こした(春生門事件)。そして、ロシアに促された高宗はロシア公使館に逃げ込んで、そこに政府を置くとした(露館播遷)。閔妃暗殺への関わりを疑われた大院君は、高宗と対立関係となり、事実上失脚した。

 高宗を担いだ親露派の政権において、小村寿太郎駐朝公使やロシアへ派遣された山県有朋特命全権大使が、朝鮮への対応をロシア側と交渉した(小村・ウェーバー覚書及び山縣・ロバノフ協定)。日露が当面の利害調整を為すなか、朝鮮国王「高宗」はロシア公使館から慶運宮へ戻った。


 清の冊封下から離脱した朝鮮では、明から下賜された国号であった「朝鮮」を変更するべしとの声が強まった。高宗は朝鮮を「三韓の地」と認識しており、「韓」を朝鮮の統一王朝の国号として使うのが良いと考え、それに「大」を加えて「大韓」を新しい国号に定めた。そして1897(明30)年には「大韓帝国」を宣言し、高宗は皇帝に即位し「光武帝」と称した。

 1904(明37)年の日露戦争で日本が勝利すると、朝鮮からロシアの影響力が一掃され、清や他の列強の影響もなくなり、やがて日本の保護国化し、1910(明43)年の日本による「韓国併合」で、大韓帝国はわずか13年で消滅する。結局は、清・露・日らの力のバランスが崩れた時に、朝鮮は属国ないし併合されるしかない立場にあったと言える。


◎藩閥政治の揺らぎ

*1896.4.14/ 自由党総裁の板垣退助が、第2次伊藤内閣の内務大臣に就任する。藩閥内閣に民党の総裁が入閣し、藩閥政治に風穴が開く。

*1896.9.18/ 第2次松方正義内閣が成立する。進歩党の事実上の党首大隈重信が外相として入閣、「松隈(しょうわい)内閣」と呼ばれ、第2次伊藤内閣に続いて、藩閥と民党が妥協した政府となった。

*1896.11.14/ 雑誌「二十六世紀」が「宮内大臣論」を掲載し、長州勢力の宮廷支配を暴露、発行禁止となる。その記事を転載した新聞「日本」や、批判を支持した「万朝報」も発売停止処分となった。


 討幕の中心となった薩摩・長州・土佐・肥前の出身者が、明治新政府では政権中枢や地方官の要職をしめ、「薩長土肥」の藩閥政府と呼ばれた。その後「征韓論での分裂」「明治十四年の政変」などを経て、薩長二大藩閥の権力独占がほぼ確立した。

 大日本帝国憲法体制のもとで議会政治へ移行したあとも、藩閥勢力は内閣および官僚組織のほか軍部、枢密院、貴族院などの国家機関を支配下に置いた。藩閥の最高指導者の伊藤博文(長州)をはじめ、黒田清隆(薩摩)、山県有朋(長州)、松方正義(薩摩)らは、交互に第10代までの首相となり、また憲法外の機関である「元老」として権力の中枢を占めた。


 伊藤博文、黒田清隆と続く初期内閣は、大日本憲法が施行され帝国議会が開設されても、「超然主義」を唱えて、議会や政党の主張に影響されないという方針をとった。しかし、財政予算や立法には衆議院の同意が必要であったため、政党勢力との妥協が必然となった。

 自由民権運動が帝国議会の開設で一段落したあと、各自が政党を作って国会内での反政府運動に転じた。日清戦争後の第2次伊藤内閣は、富国強兵などの大きな財政予算の成立を必要としたため、政党との提携に転じて、自由党総裁の板垣退助を内務大臣に取り込んだ。続く第2次松方内閣でも、進歩党の事実上の党首大隈重信を外相として入閣させた。


 板垣退助は土佐藩出身、大隈重信は佐賀藩出身であったが、早くから藩閥政府から離脱して、それぞれ民党のリーダーとして活躍していた。一方で伊藤博文は、自身が1900(明33)年、「立憲政友会」を結成して政党政治への転換をはかった。

 1898(明31)年6月に、大隈重信は板垣退助らと「憲政党」を結成し、薩長藩閥以外で初の内閣総理大臣となり、日本初の政党内閣を組閣した(隈板内閣)。しかし旧自由党と旧進歩党の間の内部対立は激しく、たった4ヵ月で内閣総辞職となった。そのあとを継いだ第2次山県有朋内閣では、軍部大臣現役武官制の導入などで軍部の政治的独立を進めるとともに、文官任用令改正などにより、政党勢力の内閣および官僚組織への進出を抑えるなど、藩閥勢力の復活を策した。


 大正期となると、二次にわたる憲政擁護運動の展開、山県ら元老の死去などによって、さしもの藩閥の権力も大きく揺らいだ。帝国大学や陸軍士官学校などで養成された軍民官僚が、次第に権力中枢に進出し、彼らは全国各地から選抜されており、藩閥とは無縁な出自であった。最後の元老西園寺公望(藩閥でなく公家出身)の差配などで、立憲政友会の原敬内閣や護憲三派の加藤高明内閣など本格的政党内閣が誕生し、藩閥政治は終焉する。

 「藩閥政治」とは、一部寡頭勢力による政治の専有であり、自由民権運動においては批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」が合言葉とされた。しかし、新政府の確立期にあっては、少数重鎮による機動的な意思決定や、政府機能の有機的な連係が、藩閥による親密な関係によって形成されていたという側面もあった。


 大正になって藩閥が消滅すると、逆に政党間の緊張感が薄れ、政党政治の腐敗を招いて、官僚や軍部に迎合するようになったという指摘もある。昭和の軍国主義も、山県有朋らが形成した軍部組織の独走という直線的な見方だけでなく、政治の無能力のゆえ、官僚や軍人が実権を掌握することになり、縦割り行政の弊害と相まって、国家が迷走した原因だとも考えられる。


(この年の出来事)

*1896.3.1/ 立憲改進党・立憲革新党・中国進歩党などが合同して、「進歩党」が結成される。所属議員99名。

*1896.6.3/ 清の李鴻章が、ロシアの外相ロバノフと進めていた秘密交渉が妥結する。対日共同防衛など。

*1896.6.15/ 三陸地方を大津波が襲い、未曽有の大被害をもたらす。

*1896.7.21/ 日清通商航海条約が調印される。領事裁判権、最恵国条項などを含む。


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