2020年8月24日月曜日

【19C_m3 1893(m26)年】

 【19th Century Chronicle 1893(m26)年】


◎文芸雑誌「文学界」創刊

*1893.1.31/ 文芸雑誌「文学界」が創刊される。


 文芸雑誌「文学界」は、1893(明26)年1月に創刊され、1898(明31)年までに58冊発行された。キリスト教的ヒューマニズムから女性の啓蒙に取り組む巌本善治が「女学雑誌」を主宰しており、そこに寄稿していた若手らが、西欧ロマン主義の影響下に分離独立して「文学界」を刊行することになった。

 「文学界」同人は、尾崎紅葉の硯友社派、坪内逍遙の早稲田派、森鴎外の千駄木派、幸田露伴の根岸派などとは馴染めない若手たちが集り、日本で最初の「ロマン主義文学」の産声をあげる。星野天知が編集を担当し、島崎藤村(21歳)・馬場孤蝶(24歳)・上田敏(19歳)・北村透谷(25歳)・樋口一葉(21歳)など若手の作家が集った。


 日本の近代文学は、坪内逍遥の「小説神髄」(1885年)によって実質的に出発した。それまで政治小説や戯作文学しかないところに、坪内は「心理的写実主義」に基づいて、それまでの勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情心理を描くべきで、それを補足する形で世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。

 明治中期(1890年前後)になると、西欧のロマン主義文学の影響を受けてドイツ留学より帰国した森鴎外が、「舞姫」(1890年)を発表してロマン主義の先鞭をつけた。「文学界」では北村透谷が、近代的自我の内面の充実を主張した「内部生命論」を書いて、理論的な先導を果たしたが、そのあと25歳で自殺する。


 「文学界」から生まれた日本ロマン主義文学の主な作品は、樋口一葉の短編小説「たけくらべ」、島崎藤村の詩集「若菜集」、国木田独歩の随筆的小説「武蔵野」、徳冨蘆花の社会的家庭小説「不如帰」、泉鏡花の幻想小説「高野聖」、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」、高山樗牛の評論「美的生活を論ず」などが挙げられる。

 20世紀(明治末期)に入ると、ゾラやモーパッサンなどの影響を受けて、「自然主義文学」が起こった。国木田独歩や島崎藤村も、ロマン主義から自然主義的な作風に変化してゆき、日本のロマン主義文学は比較的短命に終わり、代わった自然主義文学の全盛となった。


 島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」によって方向性が決定づけられた日本の自然主義は、西欧のそれが、自然科学や社会科学の知見を取り入れた客観的な描写を行うものであったのに対し、「私」の現実を赤裸々に暴露する告白ものが主流とされ、日本固有の「私小説」という狭い方向に収斂していった。

 自然主義が席巻する明治末の文学界に対して、耽美派・白樺派などの反自然主義文学が登場するが、夏目漱石や森鴎外という大家は、これらの流れに超然として作家活動を続けた。


◎祝典歌「君が代」

*1893.8.12/ 文部省が、学校の祝日大祭日の儀式に用いる唱歌として「君が代」など8編を選ぶ。


 「君が代」は、天皇の治世を奉祝する歌として、歌詞は古今和歌集の"詠み人知らず"として収録された短歌から採られ、曲は1880(明13)年に付けられた。明確な規定なきままに、以後国歌として歌われてきたが、戦後半世紀以上も経った1999(平11)年、「国旗及び国歌に関する法律」で正式に法制化された。

 そもそも幕末まで、わが国には「国歌 ”national anthem”」という概念はなかった。明治維新になって西洋近代国家との外交が生じると、国歌や国旗は外交儀礼上欠かせないものとなってきた。1869(明2)年、イギリスの軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから、国歌ないし儀礼音楽の必要を指摘された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)は、フェントンが作曲した洋楽に薩摩琵琶の歌詞をつけて、最初の演奏をしたとされる。

ジョン・ウィリアム・フェントン作曲の「君が代」 https://www.youtube.com/watch?v=nwro06_tLZw


 しかしフェントンの曲は、洋楽に馴染みのなかった日本人に普及することなく終わった。その後1880(明13)年、宮内省雅楽課の林廣守が、古い雅楽の旋律から採譜し、ドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた。さらにこれが国歌として改訂されたものが、その年の11月3日天長節にて初めて公に披露された。

 1893(明26)年8月12日、文部省が「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示し、これに「君が代」等が収められた。林廣守が作曲者とされ、詞については「古歌」と記されている。これ以降、広く事実上の国歌として「君が代」が奏じられるようになっていった。


 歌詞は、古く「古今和歌集」に、詠み人知らずとして、その原型の歌がみられる。その初句は「我が君は」となっており、後の「和漢朗詠集」の写本あたりから「君が代は」と変わっている。のちにまで広く祝賀の歌として朗詠され、歌われる場によって若干の語句や意味の変遷を経ながら伝わってきた。

 一般には「君」は天皇を指すものではないが、後世に至るに従って「天皇の御世(君が代)」を長かれと祝賀する歌であるとする解釈に収斂していった。しかし庶民の間では「宴の最後を締める歌」として歌われたり、江戸の遊郭などでは、性を含意した俗歌として用いられる場面もあったという。

cf.「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す)


 大日本帝国憲法下では、万世一系の天皇が治める世を寿ぐ、ごく自然な国家平安の歌として親しまれていたとされるが、軍国主義を称揚する目的に利用された経験から、終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)により、日の丸とともに、君が代は禁止された。

 その後の戦後民主主義の世の中で、「君が代」の内容が民主主義にそぐわないとして、学校教育の場などでは斉唱拒否などが頻発した。一時期は、大相撲の千秋楽にしか歌われないなどと揶揄される時代もあったが、五輪など国際的なスポーツや試合で「君が代」を耳にする機会も増え、一般には、君が代アレルギーは低下していったと思われる。


 現在、法的に国歌と規定された「君が代」であるが、戦後民主主義教育を受けた世代には、素直に歌うにはいささかの抵抗感が残っているのは否めない。しかも、学校教育では「君が代」を歌う機会もほとんどないので、スポーツ国際試合などで国歌を歌えない若者も多いようである。それが「問題」であるのかどうかは、それこそ別問題ではあるが。


(この年の出来事)

*1893.2.10/ 軍艦建造費をねん出するための詔勅が出る。

*1893.5.19/ 朝鮮で起きた防穀令問題で、朝鮮政府が損害賠償11万円を支払うことで妥結する。

*1893.6.29/ 単騎シベリア大陸横断に成功した福島安正陸軍中佐が、東京に帰着する。

*1893.7.-/ 御木本幸吉が半円真珠の養殖に成功する。(養殖真珠の始め)


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