【19th Century Chronicle 1875(m8)年】
◎大阪会議
*1875.2.11/ 井上馨と伊藤博文の斡旋により、大久保利通と木戸孝允・板垣退助との会談が実現し、立憲政体への漸次移行で三者の意見が一致する。これにより、木戸・板垣が参議に復任。(大阪会議)

政府に対する不満は全国で顕在化し、下野した江藤新平による「佐賀の乱」はじめ各地における士族の反乱、一方で、板垣退助らによって、言論による自由民権運動が始められるなど、明治維新政府は最大の危機に直面していた。


このように、大久保・木戸・板垣の三者の思惑は違っていたが、大久保の相談役そして、板垣退助との仲介役として、この不一致を穏便にまとめた五代友厚の働きによって、大阪会議は成功へと導かれた。

大阪会議での三者合意による政体改革案は一応の成果を見せ、3月に木戸・板垣は参議へ復帰し、合意に基づき、さっそく4月14日には明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられた。これは、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言したもので、のちの立憲議会制への方向性を示すものとなった。
しかし、板垣は参議就任により、愛国社創立運動の失敗を招き、自由民権派から厳しく糾弾される。さらに、木戸との意見対立もあり、ほどなく参議を辞することになる。また、木戸も持病の悪化など政治活動が困難になり、政府内の発言力は低下していった。
さらに、不満を抑えるために、左大臣として政権に取り込んでいた”薩摩の殿”島津久光が、いよいよ不満を爆発させ辞表を提出するなどして、結局は、それ以前の岩倉・大久保らが主導権を握る体制に戻った。ここに大阪会議で決定された新体制は完全に崩壊した。結果として、大久保主導の体制が強化される形で復活したが、この大阪会議で将来的な立憲政体・議会政治の方向性が示されたのは、唯一の成果であった。
◎江華島事件
*1875.9.20/ 朝鮮の江華島近くで、日本海軍軍艦雲揚と朝鮮とが交戦する。(江華島事件)

西郷隆盛を始め、政府の半数が下野するという明六政変があったあと、その後も、台湾出兵の発生や朝鮮での大院君失脚など、情勢の変化が続き、朝鮮問題は静観されることになった。一方で、朝鮮王朝の実権を握った閔妃の閔氏政権も、鎖国政策を守り続けた。


(追補)
明治新政府は、幕末の英仏などの脅威をやっと取り除き、大陸側の清国・露西亜の脅威に目を向けつつあった。この時、地政学的な重要地が朝鮮半島であり、ここにどう対応するかが征韓論論議の背景にあった。
朝鮮半島では、大院君の息子高宗の妃である閔妃とその一族が、大院君を排除して実権を把握し、清国を頼って日本に対抗させる政策で、開国を拒否した。その後、江華島事件など諸事件が起こるが、清国を頼る閔妃派と日本を頼る大院君派は抗争を続け、結局、朝鮮をめぐって日清戦争が起こる。

日露戦争で日本が勝利すると、対抗勢力もなくなり日本の保護国下に置かれる。そして併合慎重派であった伊藤博文の暗殺とともに、日本を頼る一派の要請により、日本に併合される。
以上、30年間以上にわたって大院君派・閔妃派などと宮廷闘争に明け暮れ、日清露に泣きつくだけで、いっさい独自性を持たないコウモリ政権に翻弄された朝鮮半島であった。
◎同志社英学校創立
*1875.12.13/ 新島襄が「同志社英学校(同志社大学)」を創立する。
当地では、渡航した時の船主夫妻らの援助をうけ、ボストンで名門校アマースト大学を卒業、日本人初の学士号取得者となった。そのような努力もあり、当初、密航者として渡米した襄だが、駐米公使森有礼によって正式な留学生として認可された。
1872(明5)年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と出会い、木戸孝允に語学力を買われ、木戸専属の通訳として使節団に参加することになった。以後、使節団と共に、ニューヨークを経てヨーロッパ各地を訪問し、使節団の報告書ともいうべき「理事功程」を編集し、また、文部理事官に随行して欧米各国の教育制度の調査に携わるなど、明治政府の初期の教育制度に大きな影響を与えた。


当時、新島のキリスト教主義の学校建設には、佛教や神道の僧侶神官たちが抗議集会を開き、周囲の住民をも巻き込んで執拗な反対運動を繰り広げ、京都府知事に嘆願書を提出するなど圧力をかけたため、襄との婚約直後に八重は女紅場から解雇されたという。

当時、大学と呼ばれるものは官立の東京大学のみであり、近代の「大学」という学制も確立していなかった。その時期に、正面から大学の必要を論じ、大学のあるべき姿を論じたものとして重要であり、また官立ではなく、民間人による自発的結社という新しい大学の組織原理を提示したという点でも画期的であった。まさに「同志社」とは「志を同じくする人の約束による結社」を意味しており、新島の理念を表していた。

大学令で成立した大学の中では、順次設立されていた帝国大学を除くと、私立大学として、新島襄の同志社大学は、福沢諭吉の慶應義塾大学に次ぐ歴史を誇る大学として認知されている。
(この年の出来事)
*1875.2.22/ 板垣退助を中心とする立志社が、各地の自由民権団体に呼びかけて「愛国社」を結成する。(全国的政党の初め)
*1875.4.14/ 行政機関は左院・右院を廃止し正院に統合、立法機関としては、上院下院になぞらえ「元老院」と「地方官会議」を設け、「大審院」が司法を担うとして、明治天皇から「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられる。
*1875.5.-/ 第1回屯田兵が、札幌近郊の琴似に入村する。
*1875.5.7/ ロシアとの間に「樺太千島交換条約」がペテルブルグで調印される。
*1875.6.28/ 「新聞紙条例」「讒謗(ざんぼう)律」が公布され、反政府運動・言論の取り締まりが強化される。
0 件のコメント:
コメントを投稿