【19th Century Chronicle 1876(m9)年】
◎不平士族の反乱
*1876.3.28/ 「廃刀令」が公布され、帯刀が禁止される。
*1876.8.5/ 「金録公債証書発行条例」が定められ、華族及び士族の秩禄(俸禄)が廃止され、代って金録公債が交付される。(秩禄処分)
*1876.10.24/ 神道を奉じ排外思想を持つ熊本の士族太田黒伴雄らが武装決起、熊本鎮台を襲撃するも、翌日に鎮圧される。(神風連の乱)
*1876.10.27/ 福岡の士族宮崎車之介らが秋月で挙兵するが、小倉鎮台兵により鎮圧される。(秋月の乱)
*1876.10.28/ もと参議の前原一誠ら、山口県萩の士族が挙兵する。政府は広島鎮台兵を中心に、軍艦なども動員して鎮圧する。(萩の乱)
明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族などを創設する。「廃刀令」の施行により身分的特権が廃止され、「秩禄処分」により俸禄(家禄)制度は撤廃された。一連の改革により、封建的特権を奪われた士族たちは、華族として東京に移住させられた旧藩主とも切り離され、不満の吐き出し処を失っていた。
まず1874(明7)年、前参議江藤新平が故郷の佐賀県で「佐賀の乱」を起こし、1876(明9)年10月には、廃刀令に反対して、熊本県で肥後藩の士族太田黒伴雄らが「神風連の乱」、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする「秋月の乱」、さらには山口県で元参議前原一誠らによる「萩の乱」など反乱が続いたが、それぞれ政府に鎮圧された。
1877(明10)年には、旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発する。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し鎮圧したが、政府軍も多大な戦死者と膨大な戦費を費やすことになった。この戦いにより、政府は軍事的な弱点を露呈する結果となり、その後の明治政府が徹底した富国強兵政策を進める契機となった。
西南戦争以後、不平士族の反乱は沈静化したが、一方で政府内では、「薩長土肥」出身者による藩閥を生むことにもなった。そして、反乱に加担しなかった板垣退助らは、言論によって、国会開設・憲法制定を要求する「自由民権運動」に移行した。
◎地租改正反対一揆
*1876.11.30/ 茨城県の真壁群など、複数の地域で農民数千人が、地租改正反対の一揆を起こす。(真壁騒動)
*1876.12.19/ 三重県飯野郡に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県にまで拡大した地租改正反対一揆。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。(伊勢暴動)
1873(明6)年7月より、明治新政府によって地租改正が推進されて来た。当初、自己申告主義を採用したが一向に改正作業は進まず、1875(明8)年には地租改正事務局を設置し、事務局があらかじめ見当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、これに基づいて申告額及び地価を半強制的に算出した。
これによって地租改正作業は進むことになるが、それにつれて負担の大きさに反発が高まり、全国各地で農民一揆が頻発する。農民たちの要求はさまざまだったが、基本的には租税などの負担軽減と、入会地など共有地の利用権確保などであった。全国画一的に地租への統合を進め、従来通りあるいはそれ以上の水準で賦課しようとする政府側と、生活の維持・改善のために生産余剰を確保しようとする農民側との対立の構図であった。
早期から1874(明7)年の山形県ワッパ一揆などが起ったが、大きな反対一揆は実際に地価の決定などの作業が進められた1875(明8)年から1877(明10)年にかけて頻発することになる。とりわけ1876(明9)年11月から数ヵ月間においては、茨城県・三重県・愛知県・岐阜県・堺県・熊本県などで相次いで一揆が発生した。
1876(明9)年11月末から12月初めにかけて、茨城県真壁郡飯塚村ほか26ヵ村では「真壁騒動」が引き起こされた。茨城県では急激に米価が下がり、石代相場引下げがないと貢納できない状況となっていた。そこで飯塚村などの農民は、しばしば石代相場の引下げを嘆願したが聞き入れられず、ついに蜂起することになった。
1876(明9)年12月には、三重県飯野郡(現三重県松阪市)に端を発した「伊勢暴動」は、さらに愛知県・岐阜県・堺県まで拡大する大暴動となった。1876(明9)年12月18日、租税取り立ての延期を、三重県飯野郡の農民らが戸長に申し入れた。農民と戸長の話し合いはもつれ、松阪の農民は北と南に分かれ集団で行進を始め、やがて暴動となった。
一揆は、不満の大きかった南部から北部へと展開し、さらには三重県を越え、愛知県や岐阜県にも広がった。新政府は鎮台や警視庁の巡査を派遣して農民を鎮圧したが、双方に大きな被害を及ぼし、死者35人、負傷者48人、絞首刑1人と終身懲役刑3人を含む処分者50,773人という大きな犠牲を払うことになった。
大久保利通らが指揮する政府は、地租改正がうまく進まなかったことに焦りを覚えており、茨城県で一揆が起きた時点で減租を切り出す決心を固めていた。そこに引き続いて伊勢に発した大暴動を受けて、翌1877(明10)年1月4日、地租を3.0%から2.5%に引き下げることを発表した。
地租の率はわずか0.5%下げられただけに見えるが、実質的には、地租改正前の税額に比して20%以上の軽減となった地域もある。一方で政府にとっては、全国一律に及ぶ減租であるため、莫大な減収となった。この地租引き下げは、「竹槍でドンと突き出す二分五厘」などと歌われた。
◎高橋お伝事件
*1876.8.29/ 高橋お伝が、蔵前の旅館で商人後藤吉蔵を殺し、所持金を奪い逃走する。(1879 斬罪)
高橋お伝は、上州沼田横木村に生まれ、同村の高橋波之助(浪之助)と結婚、横浜へと移るが、波之助は癩病(ハンセン病)に罹って病死(毒殺説もあり)。東京に出ると街娼などをしつつ、バクチ打ちの小川市太郎と恋仲となり同棲。市太郎の放蕩などのため借財が重なり、借金の取り立てに困ったお伝は、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をする。
藤吉はお伝を連れ出し、一夜を共にすることを要求。愛人になることで金を引き出せるとふんだお伝は、これに応じたが、藤吉は言を左右して金を貸そうとしないので、お伝は熟睡している藤吉の喉笛をカミソリでかき切り殺害した。お伝は、所用で先に帰ると宿を出たが、不審に思った宿の者が部屋を覗くと、血まみれの藤吉の枕元に、「姉の仇を打つ」という意味の書置きが残されていた。
数日の逃亡の後、お伝は逮捕され殺害を自白、1879(明12)年1月、斬首刑の判決が下り、市ヶ谷監獄で死刑が執行される。斬首執行を一手に担った山田一族の、9代目浅右衛門吉亮により斬首刑に処された。やがて刑法が施行され斬首刑は廃止されたため、お伝は斬首刑に処された最後の女子死刑囚とされている。
お伝の遺体は、警視庁病院で軍医の小山内建(小山内薫の父親)により解剖され、その一部(性器)の標本は、現東京大学医学部に保存されているともいわれる。もちろん猟奇的な関心からではないだろうが、性的行動と性器の因果関係を説く、当時の学説の影響もあったのであろうと思われる。
処刑から間もなく、当時の世俗小新聞が一斉にお伝の記事を派手に掲載した。この種の新聞は、事実を記すよりも、読み物として面白おかしく囃し立てるのが常であったため、どこまでが事実か分からない話しとして広まった。当代人気の戯作作家仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」などをもとに、さらに歌舞伎や芝居の出し物ともなって庶民に普及した。
「稀代の毒婦」などと称される高橋お伝だが、この時期には「夜嵐おきぬ(原田きぬ)」など、「稀代の毒婦」がいろいろ生み出された。お伝も、実際に殺害したのは、金で釣って騙そうとした藤吉ひとり、性的なだらしなさとかが重ね合わされて、「毒婦」に創り上げられていったのであろう。
(この年の出来事)
*1876.1.30/ 徳富蘇峰ら熊本洋学校の生徒35人が花岡山で、キリスト教「奉教主意書」に集団署名をする。「熊本バンド」と称され、集団で同志社英学校に入学し、のちに同志社大学で大きな人脈を形成する。
*1876.2.26/ 江華島事件を受けて、朝鮮江華府で「日朝修好条規」が調印される。
*1876.4.14/ 西洋料理の上野精養軒が開業し、その西洋ぶりが話題となる。
*1876.8.14/ 札幌学校(「札幌農学校」北海道大学の前身)が開校し、アメリカ人教師クラークが教頭として指導にあたる。
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