2020年8月16日日曜日

【19C_m2 1885(m18)年】

 【19th Century Chronicle 1885(m18)年】


◎「甲申政変」の決着

*1885.1.9/ 特派全権大使井上馨が、前年12月に起きた朝鮮「甲申政変」の善後処理に関する「漢城条約」に調印する。(賠償金13万円などを獲得)

*1885.4.18/ 伊藤博文大使が、「甲申政変」の事後処理として、清の李鴻章と「天津条約」に調印する。日清両軍の撤兵、将来は出兵の際の相互照会などが取り決められる。


 甲申政変では、清国軍の直接介入により、親日的な金玉均ら独立派は完全に排除された。閔妃親清政権が復活したものの、実質的には清との力関係のもとでの「漢城条約(ソウル)」であった。日本は、竹添公使を通じてのクーデターへの介入はほおかむりして、居留民が虐殺され公使館を焼かれたという明白な事実のみを持出して、賠償金を勝ち取った。清国との交渉は、別に2国間の交渉に場を移すとして、介入を排した。

 なおも朝鮮半島で睨み合う日清両軍の撤兵問題が残され、政変中に在留日本人が清国軍によって加害されたとされる、日本民間人殺傷事件に関する責任の追及もあった。日本側は、政府最高の実力者である伊藤博文を特命全権大使とする大型使節団を送り込み、清国側は李鴻章を全権として、天津で交渉の席に着いた。


 交渉は難航したが、両国軍隊の即時撤退と、朝鮮に出兵する場合の相互通知条項を定めて「天津条約」が締結された。甲申政変の事後処理は、一旦の決着をみたが、以後、日清両国は朝鮮半島の利害を巡って直接対峙することになり、のちの日清戦争へと向かってゆく。


◎明治の二大政商/岩崎弥太郎・五代友厚

*1885.2.7/ 土佐出身で、三菱会社の総帥岩崎弥太郎(52)没。

*1885.9.25/ 薩摩出身で、関西の経済界の発展に尽くした五代友厚(51)没。


<岩崎弥太郎>

 明治前半の動乱期に、政商として名を馳せた二人の財界巨星が、相次いで亡くなった。「岩崎弥太郎」は、土佐の地下浪人の長男として生まれた。郷士身分さえ売り渡して、最低辺の武士として極貧の中で育った。やがて、蟄居中の吉田東洋が開いた私塾で学び、後藤象二郎らの知遇を得ることで、頭角をあらわす契機となった。

 坂本龍馬が暗殺されたため海援隊が解散されると、あとを引き継ぐ形で、私企業として設立された九十九商会の経営者となり、外国船が牛耳る海運業で、唯一国内海運業として奮闘した。1873(明6)年、「三菱商会」へ社名変更すると、本社を大阪から東京に移し、本格的に政府に食い込み、多大な利益を上げるようになる。


 明治新政府が貨幣の全国統一に乗り出し、各藩が発行した藩札の整理のため、新政府が買い上げるとの方針を事前に察知した弥太郎は、藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を伝えたのは、新政府の高官となっていた盟友後藤象二郎であり、早くも、弥太郎は政商としての才を発現させた。

 1874(明7)年の台湾出兵では、三菱が政府の軍事輸送を一手に引き受け、政府も外国船を購入し運航を三菱に委託するなど、政府と一体となった輸送事業は暴利を得た。さらに1877(明10)年の西南戦争では、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府の軍事輸送全般を担った。三菱は、日本の汽船総数の73%を占めるなど、繁栄を極めた。


 やがて、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。明治11年紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年の政変では大隈重信が失脚し、弥太郎は強力な政府内の後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨などから三菱批判の声が高まった。1882(明15)年7月には、渋沢栄一や三井財閥など反三菱財閥勢力が協力し、「共同運輸会社」を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、苛酷なダンピング競争を繰り返し、その最中、1885(明18)年2月7日、岩崎弥太郎は満50歳で死去する。


 弥太郎の死後、政府の調停で、三菱商会は共同運輸会社と合併して「日本郵船」となり、弟の弥之助が三菱の総帥として弥太郎の後継となった。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、炭鉱・鉱山・銀行・造船・地所などの分野に多角化投資し、新組織として「三菱社」を創設し、これが三菱財閥の祖となった。


<五代友厚>

 「五代友厚」は、薩摩藩の上級武士の次男として生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、聖堂に進学して文武ともに学んだ。安政元(1854)年、ペリーが浦賀沖に来航すると、五代は、まさにこの時とばかりと意志を確立し、開国論者の立場に立って、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され航海術を学ぶ。

 文久3(1863)年、生麦事件によって発生した薩英戦争では、乗船していた藩船ごとイギリス海軍の捕虜となるが、小舟にてイギリス艦から脱出する。ただし武士魂を重視する薩摩国元では、捕虜となったことが批判され、しばらくは薩摩に帰国できなかったという逸話もある。


 慶応元(1865)年、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国を含む欧州各地を巡歴、この時の経験が、のちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。慶応2(1866)年には、薩摩藩の商事を担う役職を任され、長崎のグラバーと提携して事業を始めるなど、実業家の手腕を発揮し始めた。

 戊辰戦争が勃発すると、五代は薩摩武士として西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。その結果、明治維新となると、新政府の参与職外国事務掛となり、大阪に赴任すると、渉外担当として諸事件の外交処理にあたった。さらに大阪に造幣寮(現造幣局)を誘致して初代大阪税関長となり、大阪税関の基礎を築いた。


 1869(明2)年に退官すると、民間人として実業界で手腕を発揮した。薩長藩閥政府との結びつきも強く、1875(明8)年に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らの「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。

 大阪財界の再建にも寄与が多く、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現大阪市立大学)などの設立に関わり、民間としても、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現南海電気鉄道)などを設立した。その功を讃えて、鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には、五代友厚の銅像が建立されている。


 民間実業家としての五代は、早くから富国策としての鉱山業に着目し、明治政府から多くの鉱脈の発掘許可を得ると、各地の鉱山で採掘を展開し、「鉱山王」とも称せられ、これらは五代が政商と呼ばれる因ともなるが、五代の死後にはほとんど遺産は残されず、むしろ借金が残ったと言う。現大阪商工会議所の起点となる「大阪商法会議所」の設立にみられるように、五代友厚の功績は、商都大阪の再建に尽くした業績に示されたと言うべきであろう。


◎初代総理大臣 伊藤博文

*1885.12.22/ 太政官制が廃止され、内閣総理大臣と各大臣が置かれ、内閣が構成される。初代総理大臣に伊藤博文が就任する。(内閣制度の確立)


 慶応3(1868)年1月3日に「王政復古の大号令」が出されると、江戸幕府の体制に代わる政治体制の確立が急務となった。まずは、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の「三職制」が定められた。

 戊辰戦争終了後の1869(明2)年に「版籍奉還」が実施されると、諸藩は政府の地方機関として位置付けられるなど、大きな情勢変化に対応するため、新しい「太政官制」が導入された。これは、古代の律令制以来の太政官を復活させるという復古的な官制であった。


 そもそも明治維新の「維新"Restoration"」は「王政復古」意味し、復古的な性格を持っていた。武家政権の将軍職から、天皇親政へと「復古」することを強調したためであろう。形骸化していたとはいえ、太政官制は江戸時代も継承されており、いざ新制度となっても、蓋を開けてみると右大臣に三条実美、大納言に岩倉具視と徳大寺実則がつくなど、主要官職を皇族と公家が独占するありさまであった。

 その後調整を加えながら、1871(明4)年、「廃藩置県」が断行されると、正院(中央政府)・左院(諮問機関)・右院(調整機関)が設置され、人事面でも、太政大臣に三条実美、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任して、これに岩倉具視と万里小路博房が政府内に留まった以外、他の公家・諸侯は排除された。


 これによって、天皇が親裁し、太政官以下三大臣がこれを補佐し、参議・卿を指揮するという「明治の太政官制」の基本形式が確立された。それと同時に、実質薩長土肥出身者によるいわゆる藩閥政治の原点も確立されることになった。その後、大久保利通が、巨大官僚組織の「内務省」を設立し、自ら内務卿に就任すると、絶大な権力で内政を専管し、一方で殖産興業政策も担当し、日本近代化を推進する一元的な官僚機構となった。

 西南の役で西郷が敗死、木戸孝允は病死、翌年には大久保利通が暗殺され、維新の三傑亡きあと、伊藤博文が内務卿を引き継ぎ、その後の政府指導者の中心となった。自由民権運動が高まり、「国会開設の勅諭」が出されると、重鎮岩倉具視の意を受けて、憲法発布・国会開設の準備に奔走する。このような立憲主義体制へ移行するためには、それに先だって、太政官制に替わる「内閣制度」の創設が必要とされた。


 1885(明18)年12月「太政官達第69号」が発せられ、それまでの太政官制を廃して、内閣総理大臣と各省大臣からなる「内閣制」が定められ、ここに内閣制度が始まった。そして、初代の内閣総理大臣には、長州藩出身で参議であった「伊藤博文」が就任した。(第1次伊藤内閣)

 太政大臣は公卿が就任する慣例があり、太政官制制定以来、三条実美が務めてきたが、征韓論で政府内の意見が対立した時には、板挟みになり卒倒するなど、公家として如何にも線が細すぎた。そこで、大久保亡きあと、実質的に宰相として政府を仕切って来た伊藤博文が選ばれた。


 伊藤博文は以降4度組閣し、大日本憲法発布、帝国議会開設、日清日露の戦役などの重要な時期に、政府の中心的存在として采配した。その後、初代韓国統監として朝鮮経営を確立して退任したあと、ハルビン駅で暗殺されるまで、明治期を通じて政府で重要な役割を果たした。


(この年の出来事)

*1885.3.16/ 福沢諭吉が、時事新報に「脱亜論」を発表する。

*1885.5.9/ 日本銀行が、最初の兌換銀行券10円券を発行する。

*1885.6.6/ 松方正義大蔵卿の建議により、政府発行紙幣を翌年1月から銀貨に兌換し、償却数ことを定める。(銀本位制)

*1885.8.1/ 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社とが、競争停止の政府勧告を受け、両社合併方針の受け入れを示す。

*1885.11.23/大阪 大井憲太郎らの朝鮮でのクーデター計画が発覚し、逮捕される。(大阪事件)



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