2020年7月19日日曜日

【19C_2 1836-1840年】

【19Century Chronicle 1836-1840年】

◎天保の飢饉と「大塩平八郎の乱」
*1836.8.20/ 甲斐の都留郡の農民が、米の買い占めに怒り、商人宅などを打ちこわす。一揆は甲州一帯に広がり、代官の手に負えず無政府状態へ。(群内騒動)
*1836.9.21/ 三河加茂郡の幕府領・岡崎藩領240ヵ村一万数千人の農民が、各地で打ちこわしを行う。(三河加茂一揆)
*1936.9.24/ 米価の高騰で、大坂で打ちこわしがおこる。 
*1837.2.19/ 元大阪東町奉行所与力大塩平八郎が、飢饉対策に抗議して乱を起こす。
*1837.6.1/ 国学者生田万らが、大塩の乱に触発されて、越後柏崎で農民救済のため陣屋を急襲するが、敗死。(生田万の乱)
*1838.9.18/ 塩漬けにされていた大塩平八郎らの遺体が、大坂で引きまわしのうえ磔(はりつけ)とされる。 

 当時、天保の大飢饉が最も深刻化し、各地で百姓一揆が多発していた。米の集積地であった大坂でも、米不足が起こり、打ちこわしが頻発していた。大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、自らの蔵書5万冊を全て売却し、得た資金で救済に当たっていた。

 そのような状況にもかかわらず、幕府は江戸への米の廻送を命じたが、とりわけ、新将軍徳川家慶就任の儀式のために多くの米を廻送するのを見て、大塩平八郎は怒りをつのらせた。老中水野忠邦の実弟である大坂東町奉行の跡部良弼は、その指示に従って、大坂の豪商から購入した米を江戸へ廻送していた。


 提言を無視された大塩平八郎は、仕方なく武装蜂起にうったえることを決意し、蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。さらに、引退後に開いていた私塾の師弟に軍事訓練を施すとともに、門下生や近郷の農民に檄文を回し、参加を呼びかけた。同時に、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送った。

 新任の西町奉行が東町奉行の跡部に挨拶に来る2月19日を決起の日と決め、両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てたが、決起直前に内通により計画は奉行所に察知された。跡部を爆死させる計画は頓挫し、準備の整わぬまま、2月19日の朝に決起する。


 天保8(1837)年2月19日、天満橋の大塩邸を出発し、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民や大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げ、船場の豪商家に大砲や火矢を放ち、火災は大阪の町を包んだ(大塩焼け)。しかし、まもなく奉行所の兵に半日で鎮圧され、大塩と養子の格之助は、40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。

 大塩父子は、先に江戸に送った建議書が幕府に届くことを期待し潜伏を続けたが、大坂町奉行所の差し金により押収されてしまう。大坂に舞い戻った大塩は、匿われた先の密告により、探索方に包囲され、観念して火薬を使って自爆死した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったため、しばらくの間は大塩生存の噂が流れた。


 大塩の発した檄文の筆写が密かに伝わると、各地で同様の反乱が起き、中でも国学者生田万の乱は幕府を慌てさせた。大塩の生存説がこれらの反乱を後押ししているとみた幕府は、一年以上たってから、塩漬けの大塩一派の遺体を、市中引きまわしのうえ磔にしたが、ほとんど判別不能な遺体の磔は、その風説をより拡大したと言われる。

 大塩の挙兵はたった半日で鎮圧されたが、幕府の元役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、幕府・諸藩の要人たちに、そして幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。また、大塩平八郎は「陽明学」の学者でもあり、幕府の公式の儒学は朱子学であったが、陽明学は「地行合一」を説き「革命」をも認める学として、幕末の多くの思想家や志士に影響を与えた。


 大塩の乱は、京に近い大坂で起こされたため、その情報は逐一朝廷にも届き、幕府が朝廷の意向をうかがう切っ掛けにもなった。そのため、幕府の権威が下がる一方で、朝廷の権威が上昇する兆しが見られ、大塩の乱が端緒となって、幕末に向けて尊王思想や維新運動が盛り上がってゆく大きな流れを作り出したとも言える。


◎モリソン号事件と蛮社の獄
*1837.6.28/ アメリカ船モリソン号が、救った漂流民を伴い、通商を求めて浦賀に入港し、浦賀奉行が砲撃する。
*1837.7.10/ モリソン号が薩摩山川沖に停泊するが、12日、砲撃されて退去。
*1838.10.-/ 渡辺崋山が「慎機論」、高野長英が「戊戌夢物語」を著し、異国船打払令を批判する。
*1839.5.14/江戸 幕府批判・海外渡航計画などの罪で、渡辺崋山・高野長英などが捕縛される。(蛮社の獄)

 天保8(1837)年6月28日、アメリカの商船モリソン号が浦賀に接近したところ、異国船打払令に従って、浦賀奉行は砲撃を命じ、モリソン号は退去した。その数日後、モリソン号は薩摩は鹿児島湾に現れ、山川港沖に停泊した。モリソン号は、7名の日本人漂流民を乗せており、薩摩藩代表と交渉するが、船に戻された後、空砲で威嚇射撃されたため、マカオに帰還した。


 翌年6月になってから、長崎のオランダ商館の報告などから、初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たことや、通商を求めてきたアメリカの商船であったことを知った。幕府側は非常識にも、外国船の船籍も確かめず砲撃していたわけで、しかも、モリソン号が武装していなかったため反撃しなかったのを、異国船の打ち払いに成功したと思い込んでいた。(オランダからはイギリス船と誤って伝えられ、アメリカ船であることは後日明かになった)

 モリソン号事件は、その後アメリカなどによる報復もなく一件落着とみられたが、今後の異国船来航への対処と、マカオに連れ戻された漂流民の処遇について、老中水野忠邦は幕閣の諮問にかけた。水野忠邦は穏便案を採用したが、外国船は打ち払い、漂流民も受け入れずという、現場の強硬案のみを伝え聞いた渡辺崋山・高野長英らは、幕府の方針を批判する書を著し、やがて「蛮社の獄」に発展する事になった。

 モリソン号とともにマカオに戻された7人の日本人漂流民は、オランダ船で帰還させるという幕府方針もかなわず、尾張国生まれの音吉を除いた6人は、そのままマカオで余生を送り没した。音吉だけは、イギリス船の通訳として日英通商交渉にあたるなどし、やがてイギリスに帰化するなど、数奇な生涯を送ったという。


 一方、天保10(1839)年5月、高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられる事件が起こった。渡辺崋山は田原で蟄居とされたが、困窮し2年半後に自刃、高野長英は永牢(終身刑)となるも、5年後に脱獄、6年間逃亡するも潜伏場所に踏み込まれて殺害された。

 蛮社は「蛮学社中」の略で、南蛮の学問(蛮学)を学ぶグループ(社中)という意味。モリソン号事件の全貌が明らかになりつつあった時、天保9(1838)年10月、江戸市中で、学者・技術者・官僚などの有志知識人が集まる「尚歯会」の例会が開かれた。その席で、「漂流民受け取り拒否、モリソン号再来の場合は再度打ち払い」という最も強硬策のみが報告された。


 尚歯会に参加していた渡辺崋山・高野長英らは、そのまま幕府が強硬に打ち払いを実行すると考え、長英は打ち払いに婉曲に反対する書「戊戌夢物語」を書きあげ、崋山も幕府の海防を批判する「慎機論」を書いた。それら自体は、匿名で書かれたり、未公表であったりしたため、取り立てて問題にはならなかった。

 一方で、老中水野忠邦は江戸湾防備の強化を考え、幕臣である鳥居耀蔵を正使、江川英龍を副使として江戸湾巡視の命を下した。しかし、鳥居と江川は何かと対立し、その過程で渡辺崋山や高野長英も巻き込まれ、やがて鳥居耀蔵により疑惑の目を向けられる。とりわけ渡辺崋山は、田原藩の家老職として藩政改革に成功し、蘭学に造形深く、広く外国知識を取り入れようとしており、頑強な保守主義者鳥居耀蔵のやり玉に挙げられるようになった。


 水野忠邦は、匿名で流布していた「戊戌夢物語」の探査を配下の鳥居耀蔵に命じ、鳥居は部下に渡辺崋山の身辺を監視させた。その過程で、一部のもの好き集団が小笠原諸島などの無人島への渡航計画をしているのを嗅ぎつけた。渡航計画自体はたわいないものであったにも係わらず、戊戌夢物語は高野長英や渡辺崋山の手によるもので、崋山らは小笠原諸島を経てアメリカへの渡航を計画しているとの告発状をでっち上げた。

 渡辺崋山や高野長英など8名が逮捕され、北町奉行で吟味されたが、崋山の海外渡航計画なとは事実無根であることが判明した。しかし、幕府の面子もあり、家宅捜査で崋山の書斎から発見された『慎機論』などから、嫌疑は幕政批判に切り替えられ、逮捕者全員が、有罪を認める口書に書判させられた。渡辺崋山は田原で蟄居、高野長英は永牢(終身刑)とされる。


 その後、渡辺崋山は田原に護送され蟄居したが、生活の困窮・藩内の批判などから、2年半後に自刃した。高野長英は4年半後に、牢の火災を利用して脱獄したが、その6年後、江戸の隠れ家を急襲され、抵抗の上に絶命する。

 蛮社の獄を、幕府による思想弾圧事件と見るか、鳥居耀蔵の私怨による政敵排斥活動と見るかは、諸説ある。ただ、老中水野忠邦が鳥居を利用してやらせていたという側面もあり、大塩平八郎の乱やモリソン号事件で、幕府の権威が揺るぐ状況下で、幕府批判を抑え、幕政の綱紀を引締めるという狙いがあったことは確かであろう。


(この時期の出来事)
*1836.5.-/ 水戸藩主徳川斉昭が、湊に砲台を築く。
*1836.9.9/ 高野長英著、渡辺崋山画「勧農備荒二物考」が刊行される。飢饉に備えて、蕎麦・馬鈴薯(じゃがいも)などの非常食を紹介する。
*1837.4.2/ 家斉が将軍職を、嗣子家慶に譲り、大御所となり西の丸に移るも、実権は握り続ける。
*1838.8.-/ 長州藩が、村田清風を登用し、藩政改革を始める。
*1839.3.-/ 京で季節外れの豊年踊りが大流行し、街中で仮装した人々が乱舞する。
*1839.6.20/ 水戸藩主徳川斉昭が、幕府に、内憂外患についての意見書を提出する。(戊戌封事)
*1839.12.6/ 水野忠邦が老中首座に就任する。
*1840.7.-/ オランダ船が長崎に入港し、英国・清間におきたアヘン戦争の開戦を伝える。
*1840.12.30/ 国学者平田篤胤が、著作禁止と江戸からの退去を命じられる。

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