◎江戸の怪盗 鼠小僧次郎吉
*1832.8.19/ 盗賊鼠小僧次郎吉が、小塚原で処刑される。

泥棒稼業に身を染めて以降、武家屋敷に忍び込むこと数十回に及んだが、文政8(1825)年に土浦藩上屋敷に忍び込んだ所を、現行犯で捕縛された。この時は、初犯だと言い逃れて、入れ墨の上で江戸払いの刑を受ける。


本来なら凶悪犯に適用される刑であるが、盗みに入られた武家の面子への忖度もあったかと思われる。引き回しの際には、伝馬町から日本橋まで、鼠小僧を一目見ようという野次馬であふれた。市中引き回しは、当時の娯楽の少ない庶民への一種の見世物となっており、すでに有名となっていた鼠小僧には、まともな着物を着せ、顔には薄化粧まで施されたという記述が残されている。



処刑は小塚原刑場にて行われ、その首は3日間獄門台に晒された。墓は、両国の回向院及び蒲郡の委空寺にある。長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、参拝客が墓の一部を削って持ち帰りお守りにしているという。
◎天保の大飢饉
(自然災害)
*1833.8.1/ 関東・大羽地方が大風雨に見舞われる。
*1833.10.26/ 出羽・越後・佐渡に大地震と、それに伴う大津波があり、庄内地方に甚大な被害を出す。
(一揆・打ちこわし)
*1833.8.23/ 南部藩森岡町で、米屋も打ちこわしが発生、領内各地および秋田・青森でも打ち毀しが続発する。
*1833.9.12/ 加古川筋一帯で、農民が富商などを打ち毀す。(加古川一揆)
*1833.9.-/ 9月から12月にかけて、米の買い占めによる米価高騰に対して、全国各地に騒動・打ち毀しが起る。


幕府は米価高騰を抑えるため、米の買い占めを禁じ、米商人には囲米(備蓄米)を放出させ、全国諸藩には江戸・大坂の大消費地に廻米を命じた。さらに幕府や藩では、蔵米(備蓄米)を放出し、窮民には施米を実施した。しかし全国的な凶作は、融通しあう余地も少なく、しかも連年の凶作は、累積的にダメージを深めた。
仙台藩では、盛んに新田開発を行い、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。水戸・紀州・尾張など、幕府に近い親藩大名の領地でも、大きな被害を出した。一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もあった。田原藩(愛知)では、家老の「渡辺崋山」が、師の経世家「佐藤信淵」の思想をもとに、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきと説き、義倉の整備をして成果をあげた。また米沢藩(山形)でも、天明の大飢饉の教訓から、義倉を整備し「かてもの」という代用食を推奨するなど、周到な対策が取られた。

戦前戦中を通じて、教育勅語で「忠に孝に」と唱和させられ、忠孝のシンボルとして、二宮金治郎の銅像が各地小学校に建てられた。軍国主義の時代に称揚されて利用されたが、二宮尊徳は軍国思想とは無縁の人物で、百姓の長男として生まれ、貧しい中で独学し、自身の家の経済を建て直すのを始めとして、傾いた武家の家計を復興したりしてその能力を認められた。

結果的に、尊徳に託された農村などは、見事に豊かになり、各地から尊徳の指導を仰ぐ声が寄せられた。経世家、農政家としての実績を積み上げたが、その本質は、豊かに生きるための総合的な知恵を植え付ける実践家であった。
(この時期の出来事)
*1831.3.8/ 大坂町奉行が安治川を浚渫し、その土砂で天保山の築造を始める。
*1831.7.26/ 長州藩領の農民らが各地で打ちこわしを起こし、長州全藩を巻き込む一揆となる。(防長一揆)
*1831.-.-/ 葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」が出版される。
*1832.1.-/ 為永春水の人情本「春色梅児誉美」が刊行される。
*1832.12.-/ 大坂安治川河口に天保山が完成し、難波の新名所となる。
*1831.-.-/ 葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」が出版される。
*1832.1.-/ 為永春水の人情本「春色梅児誉美」が刊行される。
*1832.12.-/ 大坂安治川河口に天保山が完成し、難波の新名所となる。
*1834.7.11/ 大阪堂島新地の大火で、7560戸以上が消失する。
*1834.11.3/ 水戸藩主徳川斉昭が、北方警備のための蝦夷地開拓・船舶建造などを幕府に建言する。
*1834.-.-/ 浮世絵師歌川(安藤)広重の連作風景画「東海道五十三次」が完成する。
*1835.1.6/ 発明家国友藤兵衛が、自作望遠鏡で太陽の黒点観測を始める。
*1835.12.9/ 幕府が、但馬出石藩の御家騒動に介入して処断する。
*1834.-.-/ 浮世絵師歌川(安藤)広重の連作風景画「東海道五十三次」が完成する。
*1835.1.6/ 発明家国友藤兵衛が、自作望遠鏡で太陽の黒点観測を始める。
*1835.12.9/ 幕府が、但馬出石藩の御家騒動に介入して処断する。
*1835.12.-/ 薩摩藩家老調所広郷が、三都の商人に250年賦・無利子での藩債償還法を申し付け、商人たちの反発をくらう。
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