2020年7月9日木曜日

【18C_2 1781-1785年】

【18th Century Chronicle 1781-1785年】

◎天明の大飢饉
*1782.-.-/ 春から夏にかけて、西日本各地が洪水にみまわれ、さらに天候不順から凶作となり、天明の大飢饉が始まる。
*1783.1.18/ 飢饉のため出雲の飯石郡・神門郡で、年貢減免や債務支払い延期などを求めて一揆がおこる。(三刀屋騒動)
*1783.7.8/ 浅間山が大噴火、火砕流や降灰などで直接に多大な被害を出すとともに、舞い上がった噴煙が関東一円を多い、冷夏による凶作で未曽有の飢饉を惹き起こす。(天明の大飢饉)
*1783.9.19/ 仙台城下で、町人が米の値下げを要求して、藩財政を握り私腹を肥やした安部清右衛門の屋敷を打ち毀す。(安部清騒動)
*1783.9.20/ 浅間山噴火で天候不順が続き、米価高騰で高崎宿・前橋城下など北信濃一帯で打ち毀しが起きる。
*1783.-.-/ 東日本では未曽有の大飢饉で、膨大な餓死者を出し、各地に打ち毀しが広がる。
*1785.8.10/ 三河出身の菅江真澄は、信濃から東北を遊歴していたが、この年、秋田藩から津軽藩の領内に至り、東北各藩での天明の飢饉の悲惨な状況を目の当たりにし、後に紀行文「外が浜風」としてまとめる。

 天明の大飢饉は、天明2(1782)年から天明8(1788)年にかけて発生した飢饉とされ、江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉であった。天明2(1782)年の春から夏にかけて、西日本各地が洪水にみまわれ、さらに天候不順から凶作となった。こうした中、翌天明3(1783)年3月には岩木山、7月には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火では、火山噴出物が長期にわたり上空に漂い続け、日傘効果で太陽光を遮り、広い地域に冷夏による冷害をももたらす。

 同時期の1783年から85年にかけて、アイスランドの火山の巨大噴火が連続し、これらの噴火による膨大な噴出物は、成層圏まで上昇し地球の北半分を覆い、地球規模での影響を及ぼしたとされる。長期にわたって北半球に低温化・冷害を生起し、天明の飢饉どころかフランス革命の遠因になったとさえいわれる。


 幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われたが、強引に治水をした結果、河川の洪水を頻発させた。さらに田沼意次による重商主義政策によって、商業的農業による年貢増徴策は、稲作の行きすぎた奨励とともに、周辺作物としては雑穀類より商品作物が優先されるなど、米の凶作による飢饉に脆弱な体制を進めていた。また、米自体は南方由来の作物で、無理な品種改良などで東北など寒冷な地域まで作付けを展開したため、もともと冷害に弱いという状況があった。

 冷害による飢饉は全国に及んだが、なかでも東北諸藩の飢餓は深刻であった。当時の東北諸藩には財政がひっ迫した藩が多く、年貢米を備蓄にまわす余裕などなく、年貢米をすべて江戸へ廻米にして借財の返済に充てていた。それだけでなく、富農の余剰米さえ安く強制買取し借金返済にまわした。農民たちは翌年の種もみさえ食べつくし、当時の飢餓の様子には、人肉食の記述さえ多く残されている。


 一方で、飢餓による死者をほとんど出さなかった藩もあった。名君との誉れ高い上杉鷹山の米沢藩では、藩財政の改革を進めるとともに、宝暦の飢饉の経験から備荒貯蓄制度を進め、救荒令により麦作を奨励するなど、飢饉対策を講じていた。飢饉時の対応も的確で、近隣他藩が江戸への廻米を強行するなか、米沢藩では越後と酒田から米を買い入れ、領民に供出した。

 また、陸奥国白河藩では、藩主松平定信は、農民に開墾を奨励するなど重農主義を取り、町民に対しては自らも質素倹約を説いたが、いざ凶作が深刻になると、分領の越後から米を取り寄せ、また会津や江戸、大坂から米、雑穀などを買い集めた。これらで領民の飢饉を防ぎ、餓死者を一人も出さなかったとされる。もっとも、吉宗の孫で御三卿の一族でもあった定信には、幕府からの援助があり、他藩と事情の違いもあったようである。

 幕府の老中首座として、積極財政で幕府の財政改革を成し遂げた田沼意次は、天明の大飢饉が発生するとその対応に失敗し、都市部の治安は悪化、一揆・打ちこわしが激化し、賄賂が横行していた田沼政治への批判が高まった。さらに、息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺され、その上、意次の庇護者であった将軍家治の死が追い打ちをかけ、ついに田沼意次は失脚させられた。

 一方、藩政の建て直しの手腕を認められた松平定信は、田沼意次失脚のあとをおそい、少年期の第11代将軍徳川家斉のもとで老中首座及び将軍輔佐となる。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行うことになる。

(この時期の出来事)
*1781.8.13/ 絹運上などに反対して、西上野の農民が、高崎城下に入って打ち毀しを行う。(上州絹一揆)
*1781.12.-/ 肥前藩で、藩校弘道館が創設される。
*1782.春/ 手島堵庵が、京都で心学の講舎明倫舎を開く。
*1782.8.20/ 御三卿一橋領の和泉の農民が、木綿凶作のため年貢延納を求めて強訴する。(千原騒動)
*1783.7.19/ 大黒屋光太夫らが、アリューシャン列島に漂着。
*1783.9.-/ 大槻玄沢が、オランダ語の入門書「蘭学階梯」を著す。
*1784.2.23/ 筑前那珂郡の志賀島で「漢委奴国王」印が発見される。
*1784.3.24/ 江戸城中で新番士佐野善左衛門が、老中田沼意次の子で若年寄の田沼意知を刃傷する。これを契機に、田沼意次の権勢にかげり見え出す。
*1785.8.14/ 旗本寄合の藤枝外記が遊女と心中。藤枝家は改易となる。(箕輪心中)
*1785.8.-/ 前野良沢が、蘭和辞典「和蘭訳筌」を著す。
*1785.9.26/ 京都伏見の町人たちが、伏見奉行小堀政方の苛政を幕府へ越訴する。(伏見騒動)

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