◎主君押込(おしこめ)
*1751.11.11/ 三河岡崎藩主水野忠辰が重臣らにより座敷牢に押し込められる。
主君押込は、鎌倉時代から武家社会に見られた慣行だが、特に江戸時代の幕藩体制において、行跡が悪いとされる藩主を、家老らの合議による決定により、強制的に監禁(押込)することが行われた。
中世の武家社会においては、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存協力しあう運命共同体であった。そのため離合集散も多く、また家臣団の意向で主君が廃立されることもあった。
さらに戦国時代には、主君から武力で実権を簒奪することが頻繁に起こり、「下剋上」の風潮が主流となったが、これも家臣団の衆議や意向を汲み取って行われることが多く、家臣が直接に主君の座を奪った例は少ない。
江戸時代になると、幕府の支配体制が強固になるとともに、主君に対する忠誠を絶対とする武家倫理が確立した。徳川将軍家では継承システムが確立したものの、諸藩の君主には様々な問題が発生し、主君を取り換えざるを得ない場合も多い。しかし藩内の揉め事が「御家騒動」として幕府の耳に入ると、所領没収のうえ改易という最悪の場合も発生する。
そこで御家の存続を最優先した対応として、「主君押込」という方法が採られるようになった。多くの場合、家臣団が事実上幕府の了解のもとで、主君を座敷牢に押し込んだり、強制的に隠居引退させたり、場合によっては暗黙の了解のうちに暗殺したりした。つまり、革命やクーデターという暴力的な方法ではなく、四方穏便に解決する方法として遂行されたのであった。
三河国岡崎藩第6代藩主となった水野忠辰は、逼迫していた藩の財政再建のため、倹約を徹底し、自らも質素な生活を徹底した。忠辰はさらに藩政の改革に取り組み、能力のある者を要職に取り立てたり、農民に年貢を減免したりと善政を行ったとされる。しかし家老ら重臣保守派は、従来の慣習を無視した忠辰の急激な改革に反対し、さまざま妨害工作で、改革を挫折させるに至った。
すると、忠辰はやけになって遊興に耽るようになり、度重なる生母の諫言にも耳を貸さず、自暴自棄となった忠辰は、遊女を身請けするなど、酒食にふけった。ついに主君乱心とされるにいたり、宝暦(1752)2年3月、家督を養子忠任に譲らせられ、座敷牢に幽閉されてしまった。そして、そのまま同年8月に死去、享年29。
他にも、久留米藩第6代藩主有馬則維や美濃国加納藩第2代藩主安藤信尹など、主君押込の事例は多々存在する。出羽国米沢藩9代藩主上杉鷹山(治憲)のように、名君として知られる主君でさえ、七家騒動と呼ばれる藩の重役たちの反発を受け、辛うじて藩政を維持した例もある。
主君押込と言うと、遊蕩におぼれ藩政を顧みないバカ殿を、家臣団が藩の継続を目指し主君を押し込めるという形が想像されるが、水野忠辰や上杉鷹山のように、いわば善政として藩政の改革を進めたため、保守派重鎮家臣たちが改革を差し止めるという対立が原因となっている場合もある。いずれにしても、主君押込は主君が自発的に隠居したことにされ、記録に残されないことが多く、その実態は不明である。
民衆の蜂起による「革命」という政権奪取が馴染まない日本では、主君押込という形での政権交代が選ばれた。そもそも、武家政権は、天皇という主君を「押込」状態にして成り立っていたともいえる。主君を取り巻く家臣団の思惑で主君取り換えが行われるという慣行は、深く日本的政治に根差していて、戦後民主主義においても、それに近い形で行われてきたと言える。
(この時期の出来事)
*1751.6.20/ 前将軍徳川吉宗(68)没。
*1751.12.11/ 並木宗輔の代表作「一谷嫰軍記」が大坂豊竹座で初演され、熊谷直実の悲劇が評判になる。
*1752.2.15/ 勘定奉行松浦信正が長崎奉行兼職を解かれる。
*1752.夏/ 大坂の諸社祭礼で即興芸「にわか」が流行、上方喜劇のルーツとされる。
*1752.11.24/ 朝廷は、幕府への情報漏洩により参議水谷季家を処罰。非公式なルートでの情報伝達に関して、朝廷・幕府間に緊張が高まる。
*1753.1.25/ 会津藩は36万両もの借財の整理に、江戸商人海保半兵衛に返済対策を依頼する。
*1753.3.-/ 江戸で「京鹿子娘道成寺」が初演され、中村富十郎が華麗に舞う。
*1752.夏/ 大坂の諸社祭礼で即興芸「にわか」が流行、上方喜劇のルーツとされる。
*1752.11.24/ 朝廷は、幕府への情報漏洩により参議水谷季家を処罰。非公式なルートでの情報伝達に関して、朝廷・幕府間に緊張が高まる。
*1753.1.25/ 会津藩は36万両もの借財の整理に、江戸商人海保半兵衛に返済対策を依頼する。
*1753.3.-/ 江戸で「京鹿子娘道成寺」が初演され、中村富十郎が華麗に舞う。
*1754.閏2.7/ 山脇東洋らが、京都で初めて刑死体の解剖を指導する。この所見記は、5年後「蔵志」として刊行された。
*1754.11.12/ 幕府は貞享暦を廃し、宝暦甲戌暦を採用する。これにより、吉宗の強い遺志が実現された。
*1755.2.-/ 安藤昌益の稿本「自然真営道」大序が完成する。
*1755.5.22/ 薩摩藩に命じられた木曽川治水の難工事が、多大な犠牲を出して完成する。
*1755.12.-/ 京都西本願寺は、異端の信仰として秘事法門の信者を処罰する。
*1755.2.-/ 安藤昌益の稿本「自然真営道」大序が完成する。
*1755.5.22/ 薩摩藩に命じられた木曽川治水の難工事が、多大な犠牲を出して完成する。
*1755.12.-/ 京都西本願寺は、異端の信仰として秘事法門の信者を処罰する。
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