◎水戸光圀
*1661.8.19/ 徳川光圀が水戸藩主となる。
*1665.7.-/ 水戸藩主徳川光圀が、明の学者朱舜水を招聘する。

水戸藩主としては、様々な改革を手掛けた名君とされている。殉死の禁止以外にも、藩主就任直後の寛文2(1662)年には、水質の悪い水戸下町領民のために、笠原水道という飲用水用水道を設置した。

藩主時代晩年には蝦夷地に関心を示し、巨船快風丸を建造し、3度にわたって蝦夷地を探検させた。元禄3(1690)年には、養嗣子徳川綱條に藩主の地位を譲り、西山荘へ隠棲して権中納言に任じられる。


編纂事業は光圀の死後も、水戸藩の根幹事業として延々と続けられ、明治以後も水戸徳川家が継承、明治39(1906)年に至ってやっと完成される。「大日本史」の編纂を通じて形成された「水戸学」は、大義名分論に基づいた尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。
◎水戸黄門漫遊記

光圀は同時代から名君と評され、隠居後は領地内を巡視した話などから、庶民の間でも知名度は高かった。さらに、「大日本史」の編纂のため、資料収集のために家臣を諸国に派遣したことが加わって、諸国漫遊の話ができていったと考えられる。

このような漫遊記が人口に膾炙するようになるのは、江戸の後期になってからである。まず、光圀が没して半世紀後の宝暦年間に、光圀の伝記資料を基にした実録小説「水戸黄門仁徳録」が成立し、さらに講談や歌舞伎でさまざまに変奏されて、庶民に浸透していった。
当初の俳人2人をお供に行脚する話は、明治の大阪の講釈師の手によって、家臣の佐々木助三郎(助さん)と渥美格之進(格さん)に入れ替えられて人気をはくした。また、「天下の副将軍」こと水戸光圀が、諸国を漫遊するとなっているが、副将軍職は幕府の職制にはない。
水戸徳川家は御三家の一つで、参勤交代がなく江戸定府であった。そのため光圀も江戸詰めで、いざというときには将軍の代わりを務めることもあり得るとして、副将軍になぞえられたのだろうか。


テレビの連続ドラマともなると、一種のロードムービーとして、黄門様ご一行の漫遊先々での逸話を放映できるので重宝される。月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用した「水戸黄門」シリーズは人気をはくし、テレビ時代劇を代表する長寿番組となった。
このテレビシリーズはその後も、黄門様ほか助さん格さんなどの配役を入れ替えて何代も続いた。毎回の佳境で、三つ葉葵の印籠を示して「この紋所が目に入らぬか」と黄門の正体を明かすという定番シーンは、意外にもこの人気シリーズの中で発案されたものだという。
(この時期の出来事)
*1661.3.-/ 明暦の大火を記録した浅井了意の「むさしあぶみ」が刊行される。
*1661.閏8.-/ 会津藩主保科正之が、藩士の殉死を禁じる。
*1662.2.-/ 伊藤仁斎が京都堀川に儒学塾古義堂を開く。
*1662.-.-/ 仮名草子作者浅井了意の「江戸名所記」が刊行される。
*1663.1.-/ 山城宇治に黄檗山萬福寺法堂が完成し、隠元隆琦(隠元禅師)が入山する。
*1663.1.-/ 山城宇治に黄檗山萬福寺法堂が完成し、隠元隆琦(隠元禅師)が入山する。
*1663.5.23/ 幕府は、武家諸法度を改定し、殉死の禁止などを追加する。
*1663.8.5/ 幕府が、旗本・御家人に「諸士法度」を出す。(武家諸法度は大名に向けてのもの)
*1664.4.28/ 幕府が諸大名に、領地の判物・朱印状を与える。(大名領地の認知)
*1665.7.13/ 幕府が、諸大名の証人制(大名が江戸に妻子を人質として差し出す制度)を廃止する。
*1663.8.5/ 幕府が、旗本・御家人に「諸士法度」を出す。(武家諸法度は大名に向けてのもの)
*1664.4.28/ 幕府が諸大名に、領地の判物・朱印状を与える。(大名領地の認知)
*1665.7.13/ 幕府が、諸大名の証人制(大名が江戸に妻子を人質として差し出す制度)を廃止する。
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