◎鎌倉幕府の滅亡
*1324.9.19/ 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変)
*1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。
*1331.8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱)
*1331.9.11/ 楠木正成が河内赤坂城で挙兵する。
*1331.9.29/ 幕府軍が山城笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。
*1331.10.21/ 河内赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。
*1332.11.-/ 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成が千早城で挙兵する。
*1333.4.29/ 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、丹波篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。
*1333.5.7/ 足利高氏・赤松則村らが京都六波羅を攻略する。
*1333.5.21/ 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。

文保2(1318)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。正中1(1324)年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝・日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。

幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。

幕府は大軍を差し向け、まず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。
播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、元弘3(1333)年閏2月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。


両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。
◎建武新政から南北朝へ
*1333.6.5/ 後醍醐が京都二条富小路の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始する。
*1333.9.-/ 土地関係の訴訟を一元化するため、京都に雑訴決断所が設置されるが、従来の土地所有制度との間に混乱を招く。
*1333.10.20/ 奥州将軍府の設立に向けて北畠顕家が出発する。2ヵ月遅れて、これに対抗するように、足利尊氏の意を受けた弟の直義が鎌倉に向かい、鎌倉将軍府を設立する。
*1334.1.12/ 大内裏造営計画が発表され、巨額の費用が課されると、諸国の武士や農民から反対運動が起きる。
*1334.1.29/ 元弘から建武へと改元する。
*1334.8.-/ 京都二条河原に新政権批判の落書が掲げられる。
*1335.6.22/ 建武政権の転覆をはかる陰謀が発覚し、西園寺公宗・日野氏光らが捕縛される。
*1335.7.14/ 北条高時の遺児 時行が、諏訪頼重らに信濃で擁立されて挙兵する。(中先代の乱)
*1334.1.12/ 大内裏造営計画が発表され、巨額の費用が課されると、諸国の武士や農民から反対運動が起きる。
*1334.1.29/ 元弘から建武へと改元する。
*1334.8.-/ 京都二条河原に新政権批判の落書が掲げられる。
*1335.6.22/ 建武政権の転覆をはかる陰謀が発覚し、西園寺公宗・日野氏光らが捕縛される。
*1335.7.14/ 北条高時の遺児 時行が、諏訪頼重らに信濃で擁立されて挙兵する。(中先代の乱)
*1336.1.11/ 後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏(32)が入京し北畠顕家と激戦、後醍醐天皇は神器とともに東坂本へ避難する。
*1336.5.25/ 九州へ敗走していた足利尊氏が、再起し東進して摂津湊川(神戸)で、楠木正成・新田義貞と戦い、正成は敗死する。(湊川の戦)
*1336.11.7/ 足利尊氏が、京都で建武式目17ヵ条を定める。(室町幕府の成立)
*1336.5.25/ 九州へ敗走していた足利尊氏が、再起し東進して摂津湊川(神戸)で、楠木正成・新田義貞と戦い、正成は敗死する。(湊川の戦)
*1336.11.7/ 足利尊氏が、京都で建武式目17ヵ条を定める。(室町幕府の成立)
*1336.12.21/ 軟禁されていた後醍醐天皇がひそかに京を脱出、吉野へ入る。(南北朝分裂)
*1338.5.15/ 後醍醐天皇の呼びかけに応じて奥羽から西上し、足利軍と戦い続ける北畠顕家(21)が、陣中から後醍醐へ諌言を奏上する。この一週間後、顕家は高師直と戦い敗死する。
*1338.8.11/ 京都の北朝が、足利尊氏を征夷大将軍に任命する。
*1338.5.15/ 後醍醐天皇の呼びかけに応じて奥羽から西上し、足利軍と戦い続ける北畠顕家(21)が、陣中から後醍醐へ諌言を奏上する。この一週間後、顕家は高師直と戦い敗死する。
*1338.8.11/ 京都の北朝が、足利尊氏を征夷大将軍に任命する。
*1339.8.16/ 後醍醐天皇(52)が吉野の行宮で死去する。

元弘3(1333)年6月5日、後醍醐天皇は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始する。6月15日には旧領回復令が発布され、従来の土地所有権などに関しては天皇の裁断が必要とすることと定め、9月には「雑訴決断所」が設置されるが、土地所有権の許認可などを裁ききれず大混乱を引き起こす。
元弘4(1334)年正月に恒良親王立太子の儀が行われ、年号が「建武」と定められる(建武新政)。大内裏造営計画が発表され、新紙幣の発行も計画されるなど、矢継ぎ早に新政策が発表されるが、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政府の問題点が早くも露呈する。

元弘3(1333)年6月5日、後醍醐天皇は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始する。6月15日には旧領回復令が発布され、従来の土地所有権などに関しては天皇の裁断が必要とすることと定め、9月には「雑訴決断所」が設置されるが、土地所有権の許認可などを裁ききれず大混乱を引き起こす。
元弘4(1334)年正月に恒良親王立太子の儀が行われ、年号が「建武」と定められる(建武新政)。大内裏造営計画が発表され、新紙幣の発行も計画されるなど、矢継ぎ早に新政策が発表されるが、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政府の問題点が早くも露呈する。

しかし建武の新政は、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改の政策、貴族・寺社・武士の既得権の侵害、頻発する訴訟の処理不備など、多くの不満が政権批判へとつながり、「二条河原の落書」にみられるようにその無能さを冷笑され、権威を失墜した。
建武2(1335)年6月、西園寺公宗・北条泰家らにより政権転覆の陰謀が発覚する。7月には信濃国で、高時の遺児 北条時行と叔父の北条泰家が挙兵して鎌倉を占領、鎌倉府の足利直義が追い出される「中先代の乱」が起こる。
足利尊氏は時行討伐のために征夷大将軍への任命を求めるが、後醍醐天皇に許されず、そのまま尊氏は北条軍の討伐に向かい、時行軍を駆逐する。尊氏は帰京せずに鎌倉に居を据え、独自に恩賞を与えたり領地を収受するなど、後醍醐新政から離反する。

入京した足利尊氏は、建武3(1336)年8月、光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。11月7日、尊氏は「建武式目17ヵ条」の制定、新たな武家政権の施政方針を示して、実質的な室町幕府の成立となった。尊氏は暦応1(1338)年8月11日に、北朝光明天皇により征夷大将軍に任ぜられる。

南北朝の抗争は、明徳3(1392)年、明徳の和約による南北朝合一まで、約60年間にわたって続くことになる。
(この時期の出来事)
*1322.-.-/ 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。
*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。
*1331.-.-/ 吉田兼好「徒然草」が完成する。
*1339.-.-/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。
0 件のコメント:
コメントを投稿