【14th Century Chronicle 1301-1320年】
◎北条氏得宗家政治の衰退
*1284.4.4/ 執権北条時宗(34)、没。北条貞時(13)が第9代執権に就任する。
*1285.11.17/ 内管領平頼綱が、御家人安達奏盛一族を滅ぼす。(霜月騒動)
*1293.4.22/ 執権北条貞時(23)が、内管領平頼綱を滅ぼし、得宗(家督)専制政治を確立する。(平禅門の乱)
*1297.3.6/ 幕府は、御家人所領の売買質入れを禁じ、窮乏して手放した所領は無償で取り戻させる。(永仁の徳政令)
*1301.8.22/ 北条貞時は、執権職を従兄弟の北条師時に譲り出家するが、実権は握り続ける。
*1305.5.4/ 侍所代官北条宗方の陰謀が発覚、前執権北条貞時の使者により討たれる。(嘉元の乱)
*1308.8.10/ 将軍久明親王が追放され、その子守邦王が征夷大将軍とされる。
*1308.8.-/ 北条貞時が、御内人(得宗家家臣)の平政連(中原政連)から、素行の改善を願う趣旨の諫状を提出される。
*1311.9.22/ 執権の北条師時が死去し、北条宗宣が執権に就任する。翌10月26日には北条貞時が死去(41)。
*1316.7.10/ 北条師時・宗宣・煕時・基時と代理的に継がれてきた執権職に、得宗家北条高時(14)が就任する。
*1318.3.29/ 花園天皇が譲位し後醍醐天皇が即位する。
第9代執権「北条貞時」は、弘安7(1284)年4月、父時宗が病死し13歳で執権に就任する。幕府内では有力御家人の「安達泰盛」と、得宗家内管領の「平頼綱」が対立しており、貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は、幕政改革を取り仕切った。
御家人の立て直しを図る泰盛の改革は、将軍をいただく御家人層を拡大し、頼綱ら得宗家官僚の利害を侵すことになった。そして弘安8(1285)年11月、北条貞時は頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下し、泰盛派は一掃された(霜月騒動)。
これにより、北条得宗家の内管領 平頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。しかし北条家の家政機関の長である内管領では、将軍家に仕える有力御家人を押さえて幕政を主導する事に無理があり、強圧的な政権運営を行なうことになった。
そして成長した貞時は、平頼綱に見切りをつけ、正応6(1293)年4月、鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、得宗家主導の専制政治を強化した。
二度にわたる元寇は御家人たちの奮闘で撃退したものの、外冦ゆえに幕府に得るものは無く、御家人に十分な褒賞を行えなかった。莫大な軍費を費やした中小御家人たちを救済するために、永仁5(1297)年、「永仁の徳政令(関東御徳政)」を発布する。しかし、逆に借金をしづらくなるなど、かえって御家人を苦しめて、経済全般の混乱を招いた。
しかし元寇で疲弊した社会は、悪党や僧兵が狼藉を働くなど荒れすさみ、貞時は内外に問題を抱え、政治への情熱は失っていった。貞時は次第に政務を怠り酒宴に耽るなどして、御内人の平政連から諫状を受けるありさまだった(平政連諫草)。
1311年に師時と貞時が続いて死去し、以後、執権職は北条氏支流の3人に受け継がれるが、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。
1311年に師時と貞時が続いて死去し、以後、執権職は北条氏支流の3人に受け継がれるが、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。
1318年には後醍醐天皇が即位しており、天皇親政を目指し幕府転覆を計画、正中の変・元弘の変を経て、ついに元弘3(1333)年、「建武の新政」を実現する。関東で挙兵した御家人新田義貞軍が鎌倉へ侵攻するなか、高時(30)は北条一族や家臣らとともに自刃し、鎌倉幕府滅亡に立ち会うことになった。
(この時期の出来事)
*1301.11.21/ 薩摩半島西に200余隻が漂着する。
*1313.-.-/ この頃、久我雅忠の娘 二条が「とはずがたり」を著す。
*1313.-.-/ この頃、久我雅忠の娘 二条が「とはずがたり」を著す。
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