◎元寇/文永の役
*1266.11.28/ 高麗の案内でモンゴルの使者が日本に向かうも、途中から引き返す。
*1268.1.-/ 高麗の使者が、高麗・モンゴルの国書をもって大宰府に来着、通好を要求する。
*1268.3.5/ 北条時宗(18)が、第8代執権となる。
*1269.3.7/ モンゴルと高麗の使者が対馬に来着、返書を求めて島民を奪って帰る。
*1273.3.-/ 元の使者が大宰府に来着するも、入京がかなわず帰国する。
*1274.10.20/ 元軍が博多に来襲。夜、大風が起こり撤退する。(文永の役)
*1276.3.10/ 幕府が、九州・中国・四国地方の諸将に石塁を築造させる。
*1280.12.8/ 幕府が、鎮西(九州)の守護・御家人が協力して外敵からの防御に専心するよう命じる。
1260年、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位したクビライ・カアン(フビライ・ハーン)は、モンゴル帝国の分裂を収斂させ、モンゴル高原から華北にかけての東アジアをほぼ統一し、大都(現北京)に都を移し中国風の国家「元王朝(大元国)」を建国した(1271年)。
クビライは既に隷属させていた高麗を通じ、南方のジパング(日本)という豊かな国があるのを聞き、高麗を通してモンゴルへの服属を求めた。当時のクビライにとって、肥沃な江南の南宋攻略が第一次的目標であって、そのための海上ルートを確保するためでもあったとされる。
クビライは文永3(1266)年、使節の黒的を日本へ派遣したが、仲介役の高麗で、渡海の危険などを吹き込まれ、朝鮮半島南部から引き返してしまう。怒ったクビライは、高麗が自ら日本へ使節を派遣し、はっきりした返答を得てくることを高麗王に約束させた。
文永5(1268)年1月、高麗の使節団が大宰府に到来し、大蒙古国皇帝奉書と高麗国王書状を受け取った大宰府鎮西奉行は、それを鎌倉へ送達する。しかし日本側からの反応はなく、使節団は帰国する。
その後も数度にわたって使節を送るも、日本からはまともな返答がなく、文永10(1273)年、クビライはついに日本侵攻を計画し侵攻準備を開始した。この時期には、元に抵抗する高麗の三別抄を滅ぼし、南宋も元に対抗する国力を失っていたため、日本侵攻に専念できる状況となっていた。
一方日本側でも、執権となった北条時宗のもとで、元軍の襲来に備えて、筑前・肥前の警護を固めていた。そして、鎮西に所領を持つ東国御家人は、鎮西に出向かせ蒙古襲来に備えさせた。
文永11(1274)年10月3日、モンゴル人の都元帥クドゥン(忽敦)を総司令官として、蒙古・漢軍の主力軍に高麗軍、女真人の軍勢を合わせた元軍は、朝鮮半島の合浦(馬山)を出航した。高麗はクビライに命じられて、兵を出すだけではなく、侵攻用の軍船を建造させられたため、過大な負担を強いられたという。
10月5日、元軍は対馬に襲来、守備の対馬勢は奮戦するも元軍に圧殺され、島民も殺されるか捕虜にされるなどして対馬は壊滅した。さらに10月14日には、元軍は壱岐を襲撃し、こちらも大半が殺戮ないし捕囚とされた。
対馬・壱岐を侵した元軍は、10月16から17日にかけて、平戸島・鷹島・能古島など肥前沿岸を襲った。そして10月20日、元軍は九州の中枢の博多湾にせまる。一方、迎撃する日本側では、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報が発せられ、九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。
博多に上陸した元軍を迎えて、赤坂・鳥飼潟などで戦闘が交えられ、総大将の少弐景資のもと、御家人の菊池武房や竹崎季長が奮闘する。当時の日本側の戦法は、騎馬に跨った将が、名乗りを上げて突撃する一騎打ちから始まる流儀だった。しかし初めて対決した元軍は、飛距離の長い弓矢を射かける集団戦法で、日本側の騎馬はことごとく討ち取られてしまった。
大将の少弐景資を始め、竹崎季長らが防戦に努めたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となったという。ただ日本軍は防戦に追い込まれながらも、日本軍を追う左副都元帥 劉復亨を射倒すなどして奮戦した。
苦境に陥った日本軍だが、翌日10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたという。元軍の撤退の理由は定かでないが、戦闘の夜、元側では軍議が開かれ、都元帥クドゥンが、援軍の到着する日本軍に対して、援軍が期待できない疲弊した兵で戦うのは不利とみて、撤退を決議したという。
冬場に向かうこの季節、夜間に海を渡るのは危険であるとされており、帰還しようと北上する元軍の船を大風が襲い、大荒れの海で多くの元の船が難破したと言われる。よく言われる神風、つまり台風が吹く時期はかなり過ぎており、戦略上で撤退を始めたときに、冬場の風が吹き、海が荒れたのが原因ではないかと考えられる。
(この時期の出来事)
*1263.11.22/ 前執権北条時頼(37)没。
*1263.-.-/ この頃、親鸞の言行を記録した「歎異抄」ができる。
*1276.3.10/ 幕府が、九州・中国・四国地方の諸将に石塁を築造させる。
*1280.12.8/ 幕府が、鎮西(九州)の守護・御家人が協力して外敵からの防御に専心するよう命じる。
1260年、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位したクビライ・カアン(フビライ・ハーン)は、モンゴル帝国の分裂を収斂させ、モンゴル高原から華北にかけての東アジアをほぼ統一し、大都(現北京)に都を移し中国風の国家「元王朝(大元国)」を建国した(1271年)。
クビライは既に隷属させていた高麗を通じ、南方のジパング(日本)という豊かな国があるのを聞き、高麗を通してモンゴルへの服属を求めた。当時のクビライにとって、肥沃な江南の南宋攻略が第一次的目標であって、そのための海上ルートを確保するためでもあったとされる。
クビライは文永3(1266)年、使節の黒的を日本へ派遣したが、仲介役の高麗で、渡海の危険などを吹き込まれ、朝鮮半島南部から引き返してしまう。怒ったクビライは、高麗が自ら日本へ使節を派遣し、はっきりした返答を得てくることを高麗王に約束させた。
文永5(1268)年1月、高麗の使節団が大宰府に到来し、大蒙古国皇帝奉書と高麗国王書状を受け取った大宰府鎮西奉行は、それを鎌倉へ送達する。しかし日本側からの反応はなく、使節団は帰国する。
その後も数度にわたって使節を送るも、日本からはまともな返答がなく、文永10(1273)年、クビライはついに日本侵攻を計画し侵攻準備を開始した。この時期には、元に抵抗する高麗の三別抄を滅ぼし、南宋も元に対抗する国力を失っていたため、日本侵攻に専念できる状況となっていた。
一方日本側でも、執権となった北条時宗のもとで、元軍の襲来に備えて、筑前・肥前の警護を固めていた。そして、鎮西に所領を持つ東国御家人は、鎮西に出向かせ蒙古襲来に備えさせた。
文永11(1274)年10月3日、モンゴル人の都元帥クドゥン(忽敦)を総司令官として、蒙古・漢軍の主力軍に高麗軍、女真人の軍勢を合わせた元軍は、朝鮮半島の合浦(馬山)を出航した。高麗はクビライに命じられて、兵を出すだけではなく、侵攻用の軍船を建造させられたため、過大な負担を強いられたという。
10月5日、元軍は対馬に襲来、守備の対馬勢は奮戦するも元軍に圧殺され、島民も殺されるか捕虜にされるなどして対馬は壊滅した。さらに10月14日には、元軍は壱岐を襲撃し、こちらも大半が殺戮ないし捕囚とされた。
対馬・壱岐を侵した元軍は、10月16から17日にかけて、平戸島・鷹島・能古島など肥前沿岸を襲った。そして10月20日、元軍は九州の中枢の博多湾にせまる。一方、迎撃する日本側では、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報が発せられ、九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。
博多に上陸した元軍を迎えて、赤坂・鳥飼潟などで戦闘が交えられ、総大将の少弐景資のもと、御家人の菊池武房や竹崎季長が奮闘する。当時の日本側の戦法は、騎馬に跨った将が、名乗りを上げて突撃する一騎打ちから始まる流儀だった。しかし初めて対決した元軍は、飛距離の長い弓矢を射かける集団戦法で、日本側の騎馬はことごとく討ち取られてしまった。
大将の少弐景資を始め、竹崎季長らが防戦に努めたが、元軍は日本軍を破りに破り、佐原、筥崎、宇佐まで乱入したため、妻子や老人らが幾万人も元軍の捕虜となったという。ただ日本軍は防戦に追い込まれながらも、日本軍を追う左副都元帥 劉復亨を射倒すなどして奮戦した。
苦境に陥った日本軍だが、翌日10月21日の朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していたという。元軍の撤退の理由は定かでないが、戦闘の夜、元側では軍議が開かれ、都元帥クドゥンが、援軍の到着する日本軍に対して、援軍が期待できない疲弊した兵で戦うのは不利とみて、撤退を決議したという。
冬場に向かうこの季節、夜間に海を渡るのは危険であるとされており、帰還しようと北上する元軍の船を大風が襲い、大荒れの海で多くの元の船が難破したと言われる。よく言われる神風、つまり台風が吹く時期はかなり過ぎており、戦略上で撤退を始めたときに、冬場の風が吹き、海が荒れたのが原因ではないかと考えられる。
(この時期の出来事)
*1263.11.22/ 前執権北条時頼(37)没。
*1263.-.-/ この頃、親鸞の言行を記録した「歎異抄」ができる。
*1265.-.-/ この頃、北条実時が「金沢文庫」を創設する。
*1266.7.4/ 北条時宗が、将軍宗尊親王(25)を謀反の疑いで廃し、後継に親王の子で3歳の維康王をたてる。
*1272.2.11/ 執権北条時宗が名越時章を殺害、さらに北条時輔をも殺害する。(二月騒動)
*1279.-.-/ この年秋ごろ、信濃の僧一遍が踊念仏を始める。
*1272.2.11/ 執権北条時宗が名越時章を殺害、さらに北条時輔をも殺害する。(二月騒動)
*1279.-.-/ この年秋ごろ、信濃の僧一遍が踊念仏を始める。
*1280.-.-/ 阿仏尼が鎌倉へ下った時の紀行文「十六夜日記」を著す。
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