◎承和の変と藤原北家良房
*842.7.17/ 伴健岑・橘逸勢らが、謀反のかどで逮捕される。(承和の変)
*857.2.19/ 藤原北家の藤原良房が太政大臣となる。(人臣太政大臣の初め)
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左大臣藤原北家冬嗣の次男良房は、弘仁14(823)年、嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を降嫁される。藤原良房は、嵯峨上皇と皇太后の信任を得て台頭すると、良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。
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皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢は、皇太子恒貞親王の身に危機が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに与せず皇太后に上告し、企ては中納言良房からさらに仁明天皇へと伝えられた。
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事件とその事後処理に、藤原良房がどの程度関わったかは定かではない。ただし、良房の望んだ道康親王が皇太子に立てられるとともに、古くからの有力貴族であった伴氏(大伴氏)や橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏一族の競争相手であった藤原愛発や藤原吉野をも失脚させ、藤原北家の優勢を決定づけた。
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良房には嗣子がなく、兄 長良の三男 基経を養子とした。また、長良の娘の高子を惟仁親王に嫁がせ、次代への布石も打った。高子は在原業平との恋愛で有名で、伊勢物語では二条の后として登場する。
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応天門の変では、大納言 伴善男が犯人とされて失脚し、連座した大伴氏・紀氏の勢力が宮中から駆逐され、さらに藤原良房の権力が強化され、藤原北家が宮中で独占的な立場を獲得してゆく。貞観14(872)年9月2日薨去。享年69。
(この時期の出来事)
*841.12.19/ 左大臣藤原緒嗣らが、続日本紀につぐ勅撰史書「日本後紀」40巻を完成する。
*843.12.22/ 筑前の前国司文室宮田麻呂が、謀反の罪で伊豆に配流される。
*847.10.2/ 遣唐僧の円仁が、弟子と唐人を連れて帰国する。
*850.3.28/ 左近衛少将良岑宗貞が出家し、六歌仙の一人「僧正遍照」となる。
*858.6.22/ 唐に渡った円珍が帰国する。
*859.8.-/ 僧行教が宇佐八幡宮の分霊を祀り、石清水八幡宮を創祀する。
*859.9.3/ 僧円珍が園城寺(三井寺)の再興供養をする。
*860.-.-/ 円仁が立石寺を開創すると伝えられる。
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