◎薬子の変
*809.12.4/ 平城上皇が平城京旧京に移り、藤原式家の藤原薬子や兄の藤原仲成らが従う。
*810.9.10/ 平成上皇が藤原薬子とともに東国に脱出し、重祚と平城再遷都を狙い兵を起こそうとしたが、嵯峨天皇は機先を制して企てを阻止する。
*810.9.12/ 平成上皇は出家、藤原薬子は自殺、仲成は射殺され、薬子の変は決着する。
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即位した平城天皇は、薬子を尚侍として手元に戻し、その夫である藤原縄主は大宰帥として九州に赴任させてしまう。宮中では、薬子とその兄の藤原仲成が専横を極め、兄妹は人々の怨嗟の的になった。
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このため平安京と平城京に朝廷が並立し、薬子と仲成は平城上皇の復位(重祚)をめざし平城京への遷都を画策する。二所朝廷の対立が深まる中で、大同5(810)年9月6日に平城上皇は、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。
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嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、薬子とともに東に向かったが、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂に阻止される。挙兵を断念した平城上皇は平城京に戻り、直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺し、すでに捕縛されていた仲成は処刑される。
こうして「薬子の変」はあっけなく鎮圧され、事件後、嵯峨天皇は寛大な処置をとることを詔し、上皇は平城法王として名誉をもって遇された。かつては薬子らが中心となって乱を起こしたと考えられていたが、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価の下に、近年は「平城太上天皇の変」という表現がなされるようになった。
(この時期の出来事)
*802.4.15/ 陸奥の国で、蝦夷の総帥アテルイが、征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏する。
*806.3.17/ 桓武天皇(70)没。
*810.3.10/ 令外官として、内政を仕切る「蔵人所」が新設され、藤原冬嗣らが蔵人頭となる。
*814.-.-/ 勅撰漢詩集「凌雲集」が完成する。
*816.2.-/ 京の治安強化のため「検非違使」が設置される。
*818.-.-/ 勅撰漢詩集「文華秀麗集」が完成する。
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