◎長岡京から平安京遷都へ
*781.4.3/ 山部親王が即位する(桓武天皇)。
*784.610/ 藤原種継を造長岡宮使に任命し、長岡京造営に着工する。
*784.11.11/ 桓武天皇が長岡京に移る(長岡遷都)。
*785.9.23/ 造営使 藤原種継が射られて死亡する。
*785.9.28/ 種継暗殺に連座したとされる、皇太弟早良親王を廃し追放する。
*793.3.1/ 桓武天皇が新京予定の地 葛野に行幸する。
*794.10.22/ 桓武天皇が「平安京」に遷都し、山背を山城と改名する。
*796.-.-/ この年、東寺・西寺・鞍馬寺が建立される。
*800.7.23/ 桓武天皇が、故早良親王の怨霊を恐れ崇道天皇と追称する。

しかし785年9月、造宮使の種継が何者かに矢で射られ暗殺される。首謀者の中には、遷都の反対勢力として、東大寺など平城京の仏教勢力などが関わっており、また桓武天皇の皇太弟「早良親王」もこの叛逆に連座して、廃嫡のうえ配流となりその途上で憤死する。
早良親王の死後、飢饉・疫病に加えて、桓武天皇近親者の相つぐ死去など凶事が続いた。その上に、新都で2度にわたる大洪水が起こり、それら凶事は早良親王の怨霊によるもの考えられた。治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。




広大な京域が設けられたため、条坊が人家で埋まるには年月がかかり、特に右京の南部は桂川流域の湿地帯にあたるため、10世紀ごろには荒廃した。そのため、後年豊臣秀吉が御土居で囲った市域は、左京側が中心となった。
唐の東西の都 長安と洛陽に模して、平安京の右京を長安、左京を洛陽と呼び習わしたところから、洛陽部分にあたる残された京都の街中を「洛中」と呼び、その外を「洛外」と呼ばれるようになった。
こうして平安京より東に偏った地域に京都の街が形成されてゆき、平安京の内裏は何度も焼失し、天皇は里内裏と呼ばれる仮住まいを繰り返したが、その一つで平安京の東北にあった土御門東洞院殿が、現在の「京都御所」となった。また、平安京の東の端を示した「東京極大路」の場所は、現在の寺町通り・新京極通りとして、中心街となっている。
(この時期の出来事)
*788.-.-/ この年、最澄が比叡山寺(延暦寺)を創建する。
*792.6.7/ 軍団兵士制を廃止し、健児制を敷き戦闘力を強化する。
*797.2.13/ 菅野真道らが「続日本記」全40巻を進上する。
*797.9.4/ 国司などを監視する勘解由使を新設する。
*79711.5/ 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。
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