◎蘇我氏の興隆
*623.-.-/ この年、蘇我馬子が新羅征討軍を派遣し、新羅は服して調を貢進する。
*624.10.1/ 蘇我馬子が葛城県を求めるも、推古天皇は拒む。
*626.5.20/ 蘇我馬子(76)没。馬子の子 蝦夷が葬儀を仕切るも、馬子の弟 境部臣摩理勢と軋轢が生じる。
*626.-.-/ 蘇我馬子の子 蝦夷が大臣(おおおみ)になる。
*628.9.-/ 推古天皇が崩御したあと、皇位継承をめぐり紛糾する。蘇我蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を擁立し、山背大兄王(聖徳太子の長子)を推す叔父の境部臣摩理勢を殺害する。
*643.11.1/ 蝦夷の子 蘇我入鹿が、山背大兄王を襲撃して一族を滅ぼす。
蘇我氏は、河内の石川および飛鳥の葛城県蘇我里を本拠としていた土着豪族であったとされる。具体的な活動が記述されるのは、6世紀中頃の「蘇我稲目」からで、それ以前に関してはよく分かっていない。渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、渡来人の持つ当時の先進技術が、蘇我氏の台頭の一助になったと考えられる。



推古天皇34(626)年、馬子が死去すると馬子の子「蘇我蝦夷」が跡を継ぐが、馬子の弟で叔父の「境部摩理勢」との対立が生まれ、推古天皇36(628)年、推古天皇が崩御すると皇位継承者の選定で意見が対立、山背大兄王を推薦した叔父 境部摩理勢を殺害し、蝦夷は田村皇子を「舒明天皇」として即位させた。
蘇我蝦夷は、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせたり、子である「蘇我入鹿」に勝手に紫冠を授けて大臣とするなど、自らを大王に擬する行為があったという。さらに入鹿は、皇極天皇2(643)年、聖徳太子の継嗣「山背大兄王」を襲って一族を滅亡させるなど、蘇我氏一族の横暴が際立った。


これらの歴史は、日本書紀など天智・天武の治世以降に編纂された史書の記述に基づいており、皇統に滅ぼされた蘇我氏は、意図的に悪者にされている点に留意しなければならない。事績だけから見れば、蘇我氏は半島事情に詳しく、当時の先端技術や大陸の仏教をいち早く取り入れた革新派であり、開明的な政策を展開したとも考えられる。
(この時期の出来事)
*622.2.22/ 聖徳太子(49)没。
*623.3.-/ 聖徳太子追善供養のため、太子妃が鞍作鳥に法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像をつくらせる。
*630.8.5/ 犬上御田鍬・恵日らを唐に派遣する(第1次遣唐使)。
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