2021年1月21日木曜日

【21C_h2 2008(h20)年】

【21th Century Chronicle 2008(h20)年】


◎弁護士橋下徹が大阪府知事就任

*2008.1.27/ 大阪府知事選で弁護士でタレントの橋下徹が初当選する。


 2008(h20)年1月27日の第52代大阪府知事選挙で、弁護士で茶髪タレントとして活躍中の橋下徹が当選した。前職太田房江の任期満了に伴う選挙で、太田は3選出馬に意欲を示していたが、自身の事務所費や高額講演料など政治とカネの問題がクローズアップされ、出馬を断念した。

 1979(s54)年以来、共産対非共産という対戦構図が続いていたが、久しぶりに国政与党候補と第一野党候補の与野党対決の様相を見せた。先の大阪市長選挙では、民主など推薦の平松邦夫が自公推薦候補を破っており、与野党が拮抗する流れのもとで、この府知事選は衆院選の前哨戦として重要な意味を持つ選挙となった。


 選挙の争点は、府債5兆円の大阪府財政の再建と東京一極集中に起因する大阪経済の地盤沈下対策などとなった。橋下のタレント活動での言動や過去の発言での核武装論などで、与党自民・公明では中央政界で反対も多く、府連レベルでの支持となった。

 橋下は立候補が報道されたが、当初は「2万%あり得ない」と否定していたのをひっくり返して(選挙に出るか出ないかは、慣習上、正直に言う必要ないとされている)、堺屋太一・島田紳助・やしきたかじん・辛坊治郎ら関西で圧倒的な人気を誇る著名人の支援を受けて出馬表明をした。


 選挙戦では、推薦・支持の自民・公明の与党が表立った支援をしないなか、所属のタレント事務所や高校時代のラグビー部OBなど選挙の素人集団を中心に、政党色を薄めた選挙戦を展開した。投票の結果、マスコミを通じた知名度で圧倒的な優位性を持つ橋下が、50%を超える得票率で当選し、全国47都道府県の中で38歳の最年少知事が誕生した。

 当選当初から、大阪府知事としての仕事は、大阪府の財政改革に集中せざるを得なかった。2008(h20)年4月、予算大幅削減を行う財政再建プロジェクトチーム案を発表すると、助成金・補助金の大幅見直しをはかる大胆な案は、賛否入り乱れた大きな反響があった。


 とりわけ府庁改革においては「府庁解体」を唱えるなど、府議会や府庁職員組合とは徹底対立の構図となった。職員労働組合との徹夜の団体交渉は決裂したが、大阪府議会で府が提出した本予算が審議され、厳しい批判がなされたが、小幅修正のみで予算案は可決された。これらの結果、3年間で計2,441億円の歳出を削減し、613億円の歳入を確保することになった。

 多大な犠牲を強いながら府の財政改革に一定の目途をつけた橋本知事は、その過程で浮上した大阪府と大阪市の二重行政を廃し、両者を統合した一元的行政を行う「大阪都構想」を提示し、2010(h22)年4月、その実現を目指す地域政党「大阪維新の会」を立ち上げた。


 2011(h23)年11月、大阪府知事を辞職、任期満了に伴う大阪市長選挙に橋下は党代表として立候補し、府知事候補には松井党幹事長が立つという府・市ダブル選挙を戦い、両者とも当選することで、従来からの府と市の対立を解消し、大阪都構想を一歩進めた。しかし、都構想実現には法改正など国政に参与することが必須で、国政政党「日本維新の会」を結成するなどしたが、大阪以外では本格的な展開は進んでいない。

 2015(h27)年5月、公明党の協力を得て、念願の「大阪都構想」の是非を問う大阪市住民投票が実施されが、わずかな差で敗れた。大阪市長兼大阪維新の会代表の橋下徹は、同年12月の市長任期満了とともに政治家から引退することを表明し、現在は政界から離れて、弁護士・タレントとして活動している。


◎秋葉原通り魔事件

*2008.6.8/ 秋葉原通り魔殺傷事件が発生、7人が死亡し、10人の負傷者を出す。


  2008(h20)年6月8日、東京秋葉原で、青森市出身で派遣社員だった加藤智大(25)が、レンタカーのトラックで、不特定の通行人をはねてまわった後、さらに次々にダガー(ナイフ)で刺し続けた。まったく無関係の7人が死亡し10人が重軽傷を負ったが、警察官に取り押さえられた犯人加藤は、取り調べに対して「世の中が嫌になり、人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと供述した。

 6月8日12時30分過ぎ、秋葉原の神田明神通りと中央通りが交わる交差点で、自動車工場派遣社員の加藤智大の運転する2tトラックが、神田明神通りから中央通りとの交差点に向けて、信号を無視して突入、青信号で横断中の歩行者5人をはね飛ばし、交差点を過ぎて対向車線で停止していたタクシーと接触して停車した。トラックを運転していた加藤は車を降り、道路に倒れこむ被害者やかけつけた通行人・警察官ら17人を所持していたダガー(ナイフ)でたて続けに殺傷した。


 加藤によると、ネットでの掲示板荒らしに対する抗議の表明として事件を起こしたという。加藤は携帯電話向けの電子掲示板を複数利用しており、「不細工なせいで孤独な男」という人物を演じて、実社会で得られない反応を受け充実を感じていた。すると加藤に成りすました掲示板荒らしなども登場し、加藤は大事件を起こし報道されることで、それらの荒らしに対して対抗することを決意する。

 派遣会社によって静岡の工場に派遣されていた加藤は、それ以前からネットの掲示板への投稿にはまりこむようになっており、ネットの知人に自殺するつもりだとメールを送信するなど、関心を引こうとしていたが、掲示板荒らし事件などから、さらに孤独を深め、通り魔事件を起こすなどと投稿するようになった。


 実生活では仕事や友人を失い、社会との接点がネット掲示版のみになり、掲示版にしがみつく様になった加藤は、ネットでの関心をさらに引き留め続けるためには、書き込んだ「通り魔事件」を実行するしかないと思い詰めていったと考えられる。

 加藤は事件当日、住んでいた沼津から秋葉原まで移動して事件を起こすまでの間に、約30回のメッセージを書き込んで、刻々と状況を報告し続ける。午前11時45分頃、秋葉原に到着した加藤は「秋葉原で人を殺します」と最後の犯行予告を書き込み、その通りに実行した。


 東京地方裁判所の第一審では、加藤被告に求刑通り死刑が言い渡された。直接的な動機は掲示板荒らしに対する抗議の表明、根本的な原因としては、不満に対して直接的行動や暴力で相手に対峙する性格などで、間接的な原因として母親の養育方法が加藤の人格形成に大きな影響を与えたとされた。

 ネットでの孤立が契機になったのは本人も認めているが、いくつか挙げられる間接的な要因はことごとく否定している。ただし、加藤の性格形成において、母親のしつけや教育方針が多大な影響を与えたのは間違いない。加藤智大被告の母は、県下一の進学校青森県立青森高等学校卒で、異常なほど教育熱心な母親として有名であった。


  一般的な教育ママのように学習塾進学塾などに通わせるだけではなく、日常生活を厳しく監視し、友達との交友・テレビなどの娯楽・異性との交遊など、徹底して規制され、意に沿わないときにはビンタが飛び、寒空に外に立たせたり、廊下の新聞紙にぶちまけた食事を食べさせたりと、屈辱的な行為を強いられたという。

 加藤智大被告は、小中学校時代には成績優秀スポーツ万能の優等生で、母の期待に応え県立青森高校に入学したが、県下から集まる優秀生徒の間で埋没すると、どんどん成績低下し、同時に家庭内などでの暴力が増えていった。その結果、母親の希望した北海道大学には進めず、その後独り暮らしを始めるとともに、実社会から遊離し孤立を深め、ネットだけが生きがいの生活に沈潜してゆき、そこでの些細なきっかけから大事件を起こしてしまったと考えられる。


◎北京オリンピック

*2008.8.8/ 北京オリンピックが開幕する。


 2008年北京オリンピックは、2008(h20)年8月8日から8月24日までの17日間、中華人民共和国の北京を主な会場として開催された。1988(s63)年のソウル大会以来20年ぶりのアジアでの夏季オリンピックで、世界204の国と地域から約11,000人のアスリートが参加し、全28競技302種目が行われた。

 北京は2000年夏季オリンピックにも立候補していたが、決選投票でオーストラリアのシドニーにわずか2票差で敗れていた。そして、2001年7月にモスクワで開かれたIOC総会で、イスタンブール、大阪、パリ、トロントの4都市を破り、2008年の開催地に決定した。


 北京オリンピック開会式は、2008年8月8日午後8時8分8秒から北京の北京国家体育場(通称「鳥の巣」)で行われた。午後7時56分、競技場のスクリーンに古代中国の日時計の映像が現れ、中国古代の打楽器2008台を用いたカウントダウンが始まった。そして、北京市街の上空に足跡をかたどった花火が打ち上げられ、9歳の少女タレントが愛国を歌独唱する演出があったが、足跡花火はCG合成で、少女の歌は口パクだったことが後日明らかにされた。

 開会式のアトラクションは3時間以上に及び、中国の悠久の歴史を紹介する豪華絢爛なショーが展開された。そして、各国代表選手団が入場行進は、IOC規定にのっとって、古代オリンピック発祥の地ギリシャで始まり、最後に開催国の中国選手団が大歓声に迎えられて登場する。


 陸上競技短距離では、大型新人として頭角を顕わしたウサイン・ボルトが、100m・200m・400mリレーで、すべて世界新で金メダル獲得という偉業をなしとげた。400mリレーでは、日本チームが38秒15で銅メダルを獲得し、男子陸上トラック種目で日本勢がメダルを獲得するのは初という活躍を見せた。また男子マラソンでは、日本留学で成長したケニアのサムエル・ワンジルが、五輪新で優勝した。

 水泳競泳競技では、水の怪物マイケル・フェルプスが最盛期を迎えており、一大会で最高となる合計8個の金メダルを獲得した。日本選手では、北島康介が100m・200m平泳ぎで、アテネ大会と連続して2冠を達成し、「何も言えねえ」というコメントは流行語となった。


  ほかにも日本選手は、柔道で石井慧・内柴正人・上野雅恵・谷本歩実、レスリングで伊調馨・吉田沙保里、そして今大会で中止となるソフトボール日本代表が、見事金メダルを獲得し、日本選手団は金9・銀7・銅9という実績を残した。


◎リーマン・ショック

*2008.9.15/ 米の大手証券会社リーマン・ブラザーズが経営破綻する。


 2007年のアメリカ合衆国の住宅バブル崩壊をきっかけに、サブプライム住宅ローン危機が起こり、住宅市場の大幅な悪化に連動して、証券市場、債券市場などを含めた多分野にわたる資産価格の暴落が起こっていた。

 歯止めが効かない金融危機のもとで、2008年9月アメリカ合衆国財務省が追加で約3兆ドルをつぎ込む救済政策が決定されるも、ついに2008年9月15日(月)、米国第4位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行のひとつ、リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが、連邦倒産法の適用を申請し倒産した。


 格付け機関から信用格付けAAAを受け、世界の経済・金融で重要な存在であったリーマン・ブラザーズの破綻は、米国のみならず、世界金融危機の引き金となり、「リーマン・ショック」として世界経済に大きな影響を与えることになった。

 1800年代半ばにリーマン兄弟によって設立された「リーマン兄弟商会(リーマン・ブラザーズ)」は、やがて投資金融業務に重点を移し、さらなる成長と拡大を目指して同族経営の体質を是正していった。リーマン一族が経営を支配することはなくなったが、この結果、リーマンは求心力を失ってしまい、改革の努力も効を奏さず、1984年にはアメリカン・エキスプレスに身売りすることになった。


 しかし1990年代半ばから、アメリカン・エキスプレスは事業の集中と選択を進め、リテール分野と資産管理業務を分離したため、リーマン・ブラザーズ・ホールディングスとしてニューヨーク証券取引所に再上場することになった。再上場後、業績は順調に推移したが、投資銀行業界の中では比較的弱体であったため、1999年には事態の打開策として、危険性の高いサブプライム・ローンの証券化をいち早く推進し、これがアメリカの低金利政策による住宅バブルの到来と軌を一にし、業績の拡大に成功した。

 リーマンは、サブプライム・ローンなどの高いリスクの商品で事業を拡大させたが、2007年に住宅バブルが崩壊すると、住宅ローンなどの焦げつきが深刻化した。リーマンは、サブプライム・ローンの損失処理から赤字決算となる見通しを公表、株価は4ドル台にまで急落し、最終的に負債総額約64兆円という史上最大の倒産となった。


 リーマン・ショックにより、ニューヨーク株式市場は大暴落し、大きなダメージを受けた金融機関は、「貸し渋り」「貸し剥し」など企業への融資を縮小させ、中小企業を中心に多くの会社が倒産、アメリカ経済はさらに悪化した。そして、経済状況の悪化はアメリカ国内で収まらず、世界中に拡散していった。

 アメリカは世界最大の輸入国のため、アメリカの輸入が減少し、世界中の輸出国の利益を減らすことになった。また、アメリカ同様にサブプライム・ローンの証券化商品を扱っていたヨーロッパ諸国の経済も、甚大なダメージを受けた。特にEURO加盟国は、各国が独立して金融政策を行使できないため、リーマン・ショック対策が遅れ、他国に比べて経済回復に時間がかかることとなった。


 日本は長引く不景気から、サブプライム・ローン関連債権には手を出していなかったため、直接的な影響は当初は軽微であった。しかし、リーマン・ショックによる世界的な経済の冷え込みから、金融不安で急速なアメリカ合衆国ドルの下落が進み、アメリカ合衆国の経済への依存が強い輸出産業は大きなダメージを受けた。


(この年の出来事)

*2008.1.30/ 中国製冷凍ギョーザに殺虫剤成分混入が明らかになる。

*2008.2.19/ イージス艦が漁船と衝突し漁船の2人が死亡する。

*2008.9.24/ 福田首相の辞意をうけて、麻生太郎内閣が発足する。



0 件のコメント:

コメントを投稿