【20th Century Chronicle 1997(h9)年】
◎神戸連続児童殺傷事件
*1997.5.27/ 神戸市須磨区の中学校正門で、切断された男児の頭部が発見され、神戸連続児童殺傷事件が表面化する。
1.事件の経緯
1997(h9)年5月27日早朝、神戸市須磨区の中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報した。頭部は5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものと判明し、耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。
6月4日に犯人から第二の犯行声明文が神戸新聞社に郵送され、報道はさらに過熱する。警察の捜査により、6月28日に犯人が逮捕されたが、マスコミが報じていた推定犯人像(がっちり体型の30~40代)などとは異なり、犯人が14歳の中学生であったこと、他にも事件を起こしており、連続殺傷事件であったことが判明し、さらに社会を驚かせた。
逮捕後、犯人の少年Aが犯していた幾つもの犯行が明らかとなってきた。1997(h9)年2月10日に、神戸市須磨区の路上で、小学生の女児2人をゴムのハンマーで殴り、1人に重傷を負わす。さらに3月16日には、神戸市須磨区で、小学4年生の女児に手を洗いたいと学校に案内させ、振り返った女児を金槌で殴りつけ逃走、女児は23日に脳挫傷で死亡した。同日に、別の小学生3年生の女児の腹部を小刀で刺して、2週間の怪我を負わせている。
そして5月24日、第三の事件を起こすことになる。少年Aは、人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すため自転車でぶらぶらしていたという。向こうからやってきた男児が偶然顔見知りで、自分より小さいのを見極めて高台に誘い、そこで絞殺して遺体を隠した。少年Aは、当初から手で絞めて殺してみたいという気持ちがあったという。
Aは男児の遺体を隠して帰宅したが、夜中に目覚め、フッと人間の首を切ってみたいという衝動に駆られたという。翌25日の昼前に起床すると、道具を準備して遺体を隠した場所に出かけ、男児の遺体を糸ノコギリで切断すると、性的な興奮から射精する。
少年Aは切り取った男児の首を眺め、それを自分の「作品」と感じて、まったくためらいはなかったという。ところがその物体として首が文句を言ってくる。Aは、死体にまだ魂が残っているためだと考え、さらに魂を取り出すために切り裂く行為を続けた。このあたり、少年Aが常人とまったく違った世界に生きていることを感じさせる。
Aは切り取った男児の首を隠す場所を探して、高台の池の木の根元の穴にビニール袋に入れた首を隠す。翌26日、やはり昼過ぎに池に向かい首を取り出して観察したが、取り立てて興奮を感じず、どこかに隠すよりも、自分の中学校の目立つ場所に放置する方が捜査をかく乱できると考え、いったん家に持ち帰る。
ベッドに横になりながら、男児の口に手紙をくわえさせることを思いついた。部屋にあったマンガの本から引用したりして手紙を書きあげた。手紙は「さあゲームの始まりです」という書き出しから始め、「酒鬼薔薇」と署名した。
そして5月27日未明、Aは頭部が入ったカバンを自転車で運び、中学校の校門前に遺棄した。翌朝、校門前の頭部が発見され、当日中に首を切断した場所の胴体部分まで発見されるのを、Aはテレビのニュースで知る。しかし犯人像が30~40代の男などと報道されるのをきいて、Aは調子づいて「神戸新聞社宛ての手紙」を書く。
6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた長文の第二の声明文が届く。捜査をかく乱するために、Aは声明文を書くにあたって具体的な三十歳代の男というような犯人像をイメージして書いたという。しかし一方で、酒鬼薔薇をオニバラと報道されるなど、自分のこだわりを取り違えられることには強く抗議している。
A自身が懸念したように、調子に乗って長文の声明文を送ったことなどから、6月28日、現場近くに住むAは任意同行を求められ、筆跡鑑定から突き止めたという取調官のカマかけで、犯行を自供した。
2.少年Aの供術とその後
校門前の頭部発見と声明文の公開で、猟奇的犯罪として犯人像の推理などがマスコミを賑わせたが、14歳の中学生の少年の犯行という事実と、その後の供述が断片的に報じられると、さらにセンセーショナルな話題を引き起こした。
少年の犯行ということで、その実名や顔写真は公的には伏せられたが、一部週刊誌が実名報道して写真も公開したため、その後発売は停止されたが、少年のプライバシーはネット上で拡散した。
14歳の犯行で少年審判とされたので、審判の内容は非公開となったが、この事件の猟奇性・残忍性から世間の注目度が著しかったため、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。
脳の物理的機能などには異常はみられず、精神疾患はなく意識は清明で、年齢相応の知的能力があるとされた。若干の離人症状と解離傾向があるが、解離性同一性障害ではなく、解離人格による犯行ではない。そして、未分化な性衝動と攻撃性の結合により、持続的で強固なサディズムがこの事件の重要な原因であるとしている。
さらに、「直観像素質」(写真記憶能力:瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)も原因の一つとしているが、この能力は幼少期に普通に見られ、思春期ごろに焼失するのが一般的であり、著名な芸術家などでは成人後もこの能力を維持している例も多い。
また、自己の価値を肯定する感情が低く、他者に対する共感能力が乏しく、その合理化・知性化としての虚無観や独善的な考え方がこの事件の原因の一つであるとしているが、現実に対する肯定感に乏しく、虚構や妄想に耽る性向を指しているのであろう。これも、思春期前には多かれ少なかれ誰もが持つ性向だと思われる。
標準的な人は思春期前に、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、Aでは性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず、暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していたとされる。遺体に損壊を加える時に射精したり、一方で、女性に対する性的関心を問われて、全く無いと答えている。そのような、未分化な性衝動と攻撃性の結合による快楽殺人と結論付けている。
精神鑑定結果は、Aに完全な責任能力はあるとし、成人の反社会性パーソナリティ障害に相当する行為障害とし、未成年の場合、未発達な人格形成途上の「行為障害」と表現した。つまり、行為障害の原因を除去して、Aの性格を矯正し、Aが更生することが可能とし、そのために、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致)との提案がされた。
その後の少年は、医療少年院送致とされ関東医療少年院に移され、その後東北少年院(中等少年院)に移る。そして2004(h16)年3月、 成人したAは少年院を仮退院、2005(h17)年1月、Aは本退院となる。その間のAの矯正過程は、断片的にしか公開されていない。
Aの存在は世間から忘れかけていたが、2015(h27)年6月、32歳となった「元少年A」が手記「絶歌 神戸連続児童殺傷事件」を太田出版から刊行した。さらに、同年8月には元少年Aのホームページ開設が告知され、「存在の耐えられない透明さ」と題され、トップページにはプロフィールと、自著「絶歌」の宣伝広告文が掲載された。
これらには、自分自身の「些末な名誉回復」を中心とした自己主張が大半を占め、被害者遺族への謝罪や事件に対する反省の記述は一切なかった。自身を本物の異端として特別視した自己顕示欲が目立ち、他者に対する配慮の欠如、異常性や危険性が何一つ変っていないことを示すものとされた。
*1997.7.1/ 香港の主権が、英国統治下から中国に返還される。
1842年、第1次アヘン戦争の後の南京条約で、「香港島」が清朝からイギリスに割譲された。さらに、1860年、第2次アヘン戦争(アロー号戦争)の後の北京条約によって、「九龍半島南端」が割譲された。その後の1898年、イギリス領との緩衝地帯として、「新界」が99年間の租借が決定され、以後3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。
1941年に太平洋戦争が勃発し、日本軍が香港を占領したが、1945年の日本の降伏によりイギリスの植民地に復帰した。その後1950年にイギリスは前年建国された中華人民共和国を承認した。そのため、中華民国ではなく中華人民共和国が返還、再譲渡先とされるようになった。
1979年、北京を訪問した香港総督クロフォード・マレー・マクレホースは、中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案したが、中華人民共和国側は「香港を回収する」と表明するのみで、具体的な協議にいたらなかった。そして1982年9月、英首相マーガレット・サッチャーが訪中し、英中交渉が開始されることになった。
当初イギリス側は、99年の租借期間が終了する「新界」のみの返還を検討していたが、中国の代表者鄧小平は、イギリスが清国から割譲を受けて永久領土とされる「香港島」や「九龍半島」の返還を強硬に主張した。そして、水や電力など生活インフラを新界を通じて中国本土側に依存している以上、イギリス側は香港島のみでは維持は無理として、全体を中国に返還および再譲渡することになった。
1984年12月19日、「中英連合声明」が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。鄧小平は「一国二制度(一国両制)」を提示し、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表をうけて、中国共産党一党独裁国家の支配を受けることに不安を感じる香港住民は、多くがイギリス連邦内のカナダやオーストラリアへ移民することになった。そして1997年6月30日、チャールズ皇太子と江沢民国家主席、トニー・ブレア首相と李鵬国務院総理の出席のもと、盛大な返還式典が行われた。
返還後、香港特別行政区政府が成立し、董建華が初代行政長官に就任し、旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行した。また、駐香港イギリス軍は撤退し、代わって中国本土から人民解放軍駐香港部隊が駐屯することになった。
しかしながら、香港の「高度の自治」を明記した1984年の中英連合声明については、駐英中国大使館が、今は無効だと英国側に伝え、中国当局は宣言の履行状況の現地調査を内政干渉として、調査団の香港入りを拒否するなど、一国二制度を名目化する動きが強まる。
近年、中国政府はもはや中英連合声明は意味を成さない歴史的な文書だと表明するなど、中国共産党政府からの介入が増している。そして、香港の特別行政区政府トップである「行政長官(Chief Executive)」は、立候補に中国当局の同意が必要であり、投票権は親中団体のみに与えられるという仕組みとなっている。
そのため香港人の不満は強く、2014年には、行政長官の選出などに普通選挙を要求する香港反政府デモが、学生などを中心に展開され、このデモ活動は「雨傘運動」と呼ばれた。そして2019年には、「逃亡犯条例改正案」に反対するデモが発端となり、民主的制度を求める「五大要求」が提示され、大規模な「香港民主化デモ」に発展した。
*1997.11.3/ 三洋証券が会社更生法申請し、事実上倒産となる。
*1997.11.17/ 北海道拓殖銀行が経営破綻する。
*1997.11.24/ 山一証券が自主廃業を発表する。
いわゆる「バブル経済(バブル景気)」は、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象であり、1986(s61)年12月から1991(h3)年2月までの間とされるが、これは景気動向指数からあと付けで割り出したもので、もちろん誰もが始まりと終わりを認識していたわけではない。
終わりの始まりは、1990年3月に大蔵省通達による「総量規制」に加えて、日本銀行による急激な金融引き締めで、信用収縮が一気に進んだことによる。これは過度な加速状況のもとで急ブレーキを踏んだようなもので、日本の経済は極度の混乱に陥らせた。
政府は、日銀の公定歩合の急激な引き上げ・不動産の総量規制・地価税の創設・固定資産税の課税強化・土地取引の届け出制・特別土地保有税の見直し・譲渡所得の課税強化・土地取得金利分の損益通算繰り入れ不認可など、あらゆる規制策を動員した。
株価は、1989(h1)年12月29日に最高値38,915円87銭を付けたのをピークに、翌1月から暴落に転じ、1990(h2)年10月1日には一時2万円割れし、9ヵ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。また、全国の地価は1992年に入ってから下落し始め、1993年には全国商業地平均で前年比10%以上の値下がりを記録した。
景況は急速に悪化し、企業の倒産や人員削減による失業、新規採用の抑制による苛酷な就職難が発生し、1997年の消費税5%増税とアジア通貨危機の影響も重なり、雇用者賃金の減少および非正規雇用の増加が進行した。
政府は当初、大手金融機関は破綻させないという方針だったが、やがて支えきれず、経営状態の悪い金融機関は破綻・再生する処理にかかった。1995年8月に「兵庫銀行」が戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次ぎ、事態は金融危機の様相を呈した。
とりわけ、アジア通貨危機とも重なった1997年から1998年にかけ、「北海道拓殖銀行(拓銀)」「日本長期信用銀行(長銀)」「日本債券信用銀行(日債銀)」などの政府系銀行が破綻し、さらに「山一證券」「三洋証券」など民間大手証券会社が、不良債権の増加や株価低迷のあおりで倒産し、事態はまさに金融危機に突入した。
日本では、戦前の金融恐慌で多くの弱小金融機関の破綻し、取り付け騒ぎなど社会不安を招いたことから、戦後、金融秩序を確立し、産業界が経済成長をしてゆくために、低利かつ安定的な資金を供給していくことが課題とされた。そのため、金融政策を担う大蔵省や日本銀行は、「護送船団方式」によって金融機関の経営を安定させる方法を採用した。
しかし、バブル経済の崩壊により、その政策の一端を担う長期信用銀行など政府系金融機関までもが破綻する状況となり、護送船団方式(落伍者を出さないよう最も弱小な金融機関に合わせる方式)は崩壊し、根底から金融政策を見直す必要に迫られた。
そしてその後、大幅な規制緩和を金融機関にも導入し、競争を促進する「金融ビッグバン」が進められ、金融庁が設置されて指導行政は緩和された。そして、多く存在した銀行も、大手都市銀行は「三井住友銀行」「三菱UFJ銀行」「みずほ銀行」の三大メガバンクにほぼ統合されていった。
*1997.12.1/ 地球温暖化防止京都会議が開幕する。
1992年6月、リオ・デ・ジャネイロで環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、「気候変動枠組条約(UNFCCC)」を採択した。UNFCCCでは定期的な会合「気候変動枠組条約締約国会議(COP)」の毎年の開催を規定するなど、気候変動に関する議論を進めることが規定された。
1995年COP1・1996年COP2で、地球温暖化対策の必要性が合意されるとともに、温室効果ガスの削減目標や削減手法について協議が行われた。それに引き続き1997年12月、京都市左京区宝ヶ池の「国立京都国際会館」で「第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議 COP3)」が開催された。
この京都でのCOP3では、具体的に排出量の削減を義務づける内容を盛り込んだ「京都議定書」が採択された。京都議定書では、初めて先進国に温室効果ガスの具体的な削減目標が定められ、世界的にさまざまな温暖化緩和策の進展を促すこととなった。
しかし当時、開発途上国とされ規制外とされた中国やインドなどが、その後の産業化で主要なCO2排出国となるという矛盾を含んでおり、最大の排出国アメリカは批准を拒否し、カナダもその後離脱するなど、その実効性には問題も多かった。
具体的には、 「温室効果ガスを2008年から2012年の間に、1990年比で約5%削減すること」とし、国ごとに削減目標を定められた結果、EUは8%、アメリカ合衆国は7%(しかし批准せず離脱)、日本は6%の削減などとなった。他方で、開発途上国(中国、インドを含む)は削減の義務はないとされた。
これらの、各国の利害が対立する国別の目標割当ては困難を極め、とりわけ、産業革命以来膨大なCO2などを放出してきた先進国と、これからの開発にはガスの放出も止むを得ないとする発展途上国の対立は激しく、中国などは産業化が進み最大の排出国になっているにもかかわらず、途上国であるとの位置づけを求めている。
京都議定書では、「京都メカニズム」と呼ばれる3つのユニークな温室効果ガス削減対策が提示された。「クリーン開発メカニズム」では、先進国が途上国に技術資金等の支援を行うと、排出量の削減分を自国の削減に組み込める制度で、先進国と途上国が協力して削減を促進することができる。
次いで「排出量取引」という制度を導入し、炭素クレジットという概念で、排出量枠を売買できる制度を設け、主として自国での削減達成が困難な先進国が、削減枠に余裕がある途上国から削減枠を買い取ることを可能にした。
そして三つめは「共同実施」で、先進国同士が共同で削減プロジェクトを実施した場合、そこで得られた削減量を参加国で分け合う仕組みとして、共同実施国全体の総排出量は変動しない仕組みとした。
その後もCOPは回数を重ねて、京都議定書の運用事項について協議が進められ調整を進められてきたが、2015年「第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)」がパリで開催され、京都議定書以来、18年ぶりとなる気候変動に関する国際的枠組みが「パリ協定」として採択された。
「パリ協定」は、気候変動枠組条約に加盟する全196ヵ国全てが参加し、温室効果ガスの二大排出国である中国とアメリカ合衆国が同時批准するなど、地球温暖化を低減させる歴史的な転換点と期待されたが、その後、地球温暖化に対する懐疑論者で、米国第一主義を唱えるドナルド・トランプが米国大統領に就任すると、正式に離脱を表明するなど、前途多難な状況となっている。
(この年の出来事)
*1997.2.19/ 中国最高実力者鄧小平が死去する。
*1997.8.31/ ダイアナ元皇太子妃が、トンネル自動車事故で死亡する。
*1997.10.8/ 1994年の金日成の死により、北朝鮮の事実上の最高指導者だった金正日(キム・ジョンイル)が、正式に労働党総書記就任する。
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