【20th Century Chronicle 1951(s26)年】
◎無着成恭「山びこ学校」
*1951.3.5/ 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。戦後の生活綴方の復興に影響を与える。
山形県山元村の若き中学校教師 無着成恭は、「生活綴り方運動」に取り組み、教え子である生徒たちの学級文集「きかんしゃ」などに掲載された生活記録作文をまとめて、「山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録」として刊行した。戦後のアメリカ風理想主義的な教育方針と、貧困な東北山村の現実との矛盾に苦慮した無着成恭は、生活綴方と地域調査の手法によって、身近な生活を見つめることから自治と共同の精神を育成することを目指した。
「綴り方(作文)」の指導を通じた無着の実践記録は、その生き生きとした生徒たちの生活記録から、新制中学校発足期の地域の生活に根ざした民主教育の方向を示すものとして一躍注目され、ジャーナリズムでとりあげられ、映画化・劇化されるなど広く社会的関心をよんだ。
「生活綴り方教育」は、もともと大正自由教育運動の中から生まれた。それは、それまでの画一的な教育から解放し、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育を目指すものであった。しかし戦前戦中の軍国体制下で、それは忠孝の道徳的なものに抑圧されていった。戦後の占領下では、GHQから、綴り方教育はむしろ軍国主義教育を体現したものとして排斥された。
戦後に推奨されたアメリカ風経験主義に基づく教育は、自身で観察し自分で考えるという自由教育であったが、その手法の確立しないまま教育思想だけが持ち込まれたため、教師たちは困惑していた。そこへ無着成恭が持ち込んだ「山びこ学校」は、かつてからなじみのある「生活綴り方運動」であり、しかも生活に根ざした戦後日本の民主教育の方向を示すものでもあった。
教師たちは、これなら自分たちにもできると飛びついた。しかし「山びこ学校」の成功は、無着の個人的な感性と思考に負うところも大であったと思われる。子供たちに、自身で観察し自分で考えさせるのは、そのように抽象的な「指令」をするだけでは可能になるはずもない。
私自身、昭和30年代前半を小学生として過ごした。「山びこ学校」の余波からか、授業にはけっこう作文の時間があったし、やたら作文の宿題も課せられた。低学年の時は作文が大の苦手、「今日は良い天気です、明日も良い天気でしょう。おわり」といつも三行で終わってしまう。先生に相談すると「思ったことを素直に書きなさい」という。それならスタンダールの墓碑銘みたいに「起きた、食った、寝た」だけになってしまう。
(注)スタンダールの墓碑銘「VISSE,SCRISSE,AMO(生きた、書いた、恋した)」、さすがに凡人とは違う(笑)
作文の時間がいやで仕方なかったが、あるときふと、自宅で飼っている猫のことを書き始めた。すると次々と書くことが浮かんできていくらでも書き続けることができる。これに味をしめて、次回の作文も「猫の続き」とかで難なくスルー、そのうち猫の作文が地区の文集掲載作にまで選ばれてしまった。
毎日、暇をもてあまして猫と遊んでる小学生。猫と戯れながら、いやでも猫のやることを観察している。だからいくらでも生き生きとした猫の様子が書ける。「観察し発見し書く」とはそういうことで、教師の仕事はそれに気付くような適切なアドバイスを送ることだろう。
もう一つの例。文豪フローベールに、若きモーパッサンは師事していた。フローベールのアトリエに、モーパッサンは毎日同じ石畳の道を歩いて通ってくる。特別な文学の話をするわけでもなく、茶飲み話をして帰るだけの毎日。フローベールがモーパッサンに出した指示はたった一つ「毎日通ってくる石畳の道のことを書け」。かくして、来る日も来る日もモーパッサンは同じ石畳の道のことを書き続けた。その気で観察すると、同じ石畳にも微妙な光線の具合などで、毎回新しい発見がある。ものを観察し書くということを、フローベールは端的にモーパッサンに教えたというわけである。
<追補>
その後無着成恭は、明星学園の教員から教頭となるとともに、民間の「教育科学研究会・国語部会」のメンバーとして、国語教育の科学的・体系的な日本語指導(言語教育)の確立を進めた。それまでとは異なる、斬新な国語教育法ではあった。というか、それまでまともな国語教育法なんてものは、皆無だったわけだ。
息子の小学校の担任が、教科研の手法に心酔していたようで、やたらその手法に基づいた課題などを出してくるので、初めて知って少し調べてみた。
一種の手品の種明かしみたいだが、この児童たちの解析は、すでに問いかけの構造の中に組み込まれているのだ。だから、生徒たちに特別な読解能力がついたわけではなく、特定の視点を与えずに「この詩について、自由に感想を書きなさい」などと課題を与えると、幼稚な感想でさえ書けないことになる。
いずれにせよ、国語の教育法とかには、一見もっともらしく見えるが、けっこう胡散くさいものが多い。もとより、読解力をつけるにはやみくもに本を読めばよいし、その必要のない人は読まなければよいと思ってる。
私が出くわしたした唯一の作文指導法は、低学年で「せんせいあのね、」という言葉を頭につけて始めなさい、というだけのものだった。先生に話しかける言葉の延長上で自然に書けるので、きわめて有効なのである。とはいえ、そのまま成長して会社員になってからも「社長あのね、」と報告書を出すわけには行かないのである。
◎マッカーサー 解任
*1951.4.11/ マッカーサー国連軍最高司令官が、トルーマン米大統領により解任される。(後任にリッジウェイ中将)
ダグラス・マッカーサーは、Fルーズベルト大統領の死亡によって大統領に就任したハリー・トルーマンを、小物と見下していた。他方トルーマンも、傲岸不遜で越境的な提言まで平気でする連合国軍最高司令官マッカーサーをにがにがしく思っていた。
日本がポツダム宣言を受諾すると、マッカーサーは専用機「バターン号」で厚木飛行場に降り立ち、降伏文書の調印式後東京に入り、連合国軍最高司令官として全権統治を任せられて、敗戦日本の占領政策を指揮した。そして、1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、朝鮮半島での指揮をとることになる。
自らの油断から、半島の連合軍が南端まで押し込められるという失策を犯したマッカーサーは、窮余の一策として仁川上陸というギャンブル作戦を実行、運よく反転攻勢に成功し、トルーマンの命令を無視し一挙に中国国境にまで進軍させた。しかし、あり得ないと甘く見ていた中共義勇軍が雪崩を打って参戦してくると、またもソウルを攻略される戦況となった。マッカーサーは、米本土からマシュー・リッジウェイ中将を東京に呼び寄せ現場の指揮を任せるとともに、自身はずっと東京にとどまり続けた。
このような状況を打開するために、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃を主張した。しかし、マッカーサーが第3次世界大戦勃発の危機さえ誘発しかねない核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視し続けることに激怒していたトルーマン大統領は、一方的にマッカーサーの解任を発表した。この時期には、ワシントン政府や軍幹部だけでなく、イギリスなど連合国首脳からもマッカーサーへの不信は極まっていた。
マッカーサーは極東における国連軍最高司令官としての任をすべて解かれ、後任にはマッカーサーの尻ぬぐいで戦況を休戦ラインにまで戻したマシュー・リッジウェイ中将が任命された。マッカーサーはリッジウェイにすべての業務を引継ぎ、東京国際空港から専用機「バターン号」で帰国の途に就いた。帰国後ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という人口に膾炙するフレーズは、この演説の最後に添えられたが、これは自身在籍したウェストポイント陸軍士官学校で、兵士の間でざれ歌として流行った風刺歌の一節を引用したものだという。
マッカーサーが、明確な意図をもって写真を撮らせたことは周知である。その自己顕示性は節々に見られるが、その種の個人的な意向はともかく、公的な面でも写真の持つ効力を熟知していたことは明らかだ。アメリカ大使公邸に昭和天皇を呼び寄せて撮った有名な写真は、日本国民に敗戦を目に見える形で知らしめるとともに、すべては連合国指令部を体現するマッカーサーの指揮下にあることを認知せしめた。
厚木基地に第一歩を踏み出したときのタラップでの写真も、決定的な印象を刻印する。特注のコ−ンパイプにレイバンのサングラス、簡易の軍服でリラックスした余裕のうえに威厳を感じさせるポーズをとる。実生活ではコーンパイプはほとんど使っていなかったという説もある。
上陸用舟艇から降りて膝まで軍服を濡らしながら、浅瀬を浜に向かう写真。フィリピンのレイテ島に再上陸を果たし、オーストラリアに退避した屈辱を晴らした時のものとされる。有名な "I shall return !" を達成した時のシーンである。しかし実際には、この上陸時に従軍カメラマンを伴っておらず、えざわざ後日、舟艇や兵士を動員して撮らせ直したものだと言う。しかし当時の兵士の間では、10万の将兵を捨てて逃げた卑怯者として、"I shall return” は「敵前逃亡」の意味で使われたとか。
ダグラス・マッカーサーは、極端に毀誉褒貶の大きい人物であった。フィリピンでも朝鮮半島でも、軍事上の失敗から撤退を余儀なくされている。それでも、失地回復し名声を維持したし、政府中枢や軍幹部の信頼を失ってさえ、アメリカや日本の国民には絶大な人気を博したという不思議なキャラクターであった。そして少なくとも一つ言えることは、占領下の日本の民主化を達成し、現在の日本の基礎を築いた功績は間違いないであろう。
◎アナタハン事件
*1951.7.6/ 敗戦を信じず、7年間もマリアナ諸島のアナタハン島で過ごした日本人20人が帰国する。
1951(昭26)年7月6日、サイパン島の北方約120キロの孤島アナタハンで、戦後7年間、忘れられた形で生き残っていた元日本軍兵士など男子20人が、米軍機で羽田に帰国した。先に救出されて出身地沖縄に帰っていた「比嘉和子」は、彼らとともに生活していた唯一の女性で、彼女の訴えでまだ生き残りの男たちが島に居るのが判明し、無事に救出されたのだった。
第2次世界大戦末期、アナタハン島には、国策企業の南洋興発がヤシ農園を経営しており、数名の日本人駐留員と現地住民で運営されていた。サイパン島への米軍攻撃で、アナタハンも激しく爆撃され、原住民はサイパンに逃避、残された日本人民間人は比嘉和子と上司だった農園技師比嘉菊一郎だけ、それに沈没船から流れ着いた日本兵など31名が、孤立した狭い島で生活することになった。
1945(昭20)年8月の終戦時、アメリカ軍は残留日本人が居るのを知って、拡声器で日本の敗戦を知らせたが、残された日本人は信じず、そのまま忘れられて、原始人のような生活を送っていた。やがて山中に墜落していた米軍のB-29の残骸から、パラシュートと拳銃を手に入れたことが、彼らの共同生活に変化をもたらされた。
パラシュートの生地は彼らの衣服となったが、同時に手に入れた2丁の拳銃が、男たちの間の力のバランスを狂わせ、若い女をめぐっての闘争をもたらすことになった。まず、和子が夫としていた菊一郎が変死し、次の夫になった若い男も変死、さらに、その次の夫も同様に変死する。
対立の原因は和子の存在だということになり、生命の危険を感じた和子は独りでアメリカ軍に投降し、保護された和子の供述をきっかけに他の男たちも救出されることになるが、当初32人いた男たちは20人に減少していた。先に行方不明になった1人を含めると、13人がいなくなっていたことになる。過酷な生活のもとで自然に亡くなったものも多いが、明らかにそのうち数人は和子をめぐる争いで殺されていた。
この男女の共同生活という敗戦秘話は、当初は孤島に生き延びた人たちがいたという簡単な記事で紹介されたに過ぎなかったが、やがて隔離された南海の孤島で、一人の女をめぐっての数十人の男たちの奪い合うというセンセーショナルな話題となって、大きく報道されることになった。
帰国した20人には、報道記者たちがむらがり情報を得ようとしたが、帰国者らは口重く言葉を濁した。それでも一部からの手記などが公表され、和子をめぐってスキャンダラスな抗争があったことがうかがわれた。和子自身も、比較的素朴に語ったりして、日本国内ではアナタハンブームのような状況を呈し、映画化もされるほどだった。
比嘉和子自身が、別の猟奇性を売りにしたB級映画に出演したり、着物姿で飛行機から降りる写真などをみても、一種のヒロインになった錯覚などもあったと思われる。その後も、貧窮してストリップに出演するなど、原始の孤島生活からいきなり大都会に引き出されて、いずれにせよ、自身の思いいたらぬ数奇な運命に翻弄されたことは間違いないであろう。
◎サンフランシスコ講和条約
*1951.9.8/ サンフランシスコで対日講和条約・日米安全保障条約が調印される。
敗戦による連合国軍の占領下にあった6年間で、我が国をとりまく政治環境は大きく状況を変えた。ともにファシズムと戦った連合国軍間では、いち早くアメリカとソ連が対立し、自由圏と共産圏が向かい合う冷戦構造が出来上がった。中国大陸では、毛沢東の中国共産党軍が、蒋介石の国民党軍を圧倒し、中華人民共和国(中共)が樹立された。そして、ソ連・中共に支援された北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が勃発した。
当初の占領政策は、軍国主義からの解放と徹底した民主化という方向であり、対抗勢力として共産党の合法化や労働組合の積極的推進などの政策がとられた。しかし、1947(昭22)年の「2・1ゼネスト」の中止命令などから、「逆コース」と言われる方向転換が始まり、朝鮮戦争が始まるとその流れは決定的となって、レッドパージなど非共産化政策とともに、公職追放されていた保守的自由主義の官僚や政財界人を復帰させるなど、日本を反共の防波堤として強化する方針がとられた。
朝鮮戦争勃発によって講和促進機運が高まり、これを好機ととらえた吉田内閣も積極的にGHQや米政府に働きかけた。ただ国論は、単独講和か全面講和かに二分された。アメリカを中心とする自由主義圏の国だけとの現実重視の「単独講和」論に対して、社会党・共産党や学術系文化人たちは、岩波書店の論壇誌や朝日新聞上などで理想主義的な「全面講和」の論陣を張った。
単独講和とは、明確に、アメリカを中心とする自由主義圏国家の道を選択することにほかならないが、米ソ冷戦構造のもとではソ連・中共も加えた全面講和は事実上不可能であり、吉田内閣は単独講和の道を選択した。そしてこの1951(昭26)年9月8日、サンフランシスコで「日本国との平和条約(対日講和条約)」"Treaty of Peace with Japan"が、アメリカ他48ヵ国との間に締結された。
華やかなオペラハウスでの講和条約調印式のあと、吉田茂首相はひそかに米軍下士官用クラブハウスへと直行し、そこで主席全権委員として独りで「日米安保条約」に調印した。講和条約発効と同時に国連駐留軍は全面撤退することになるため、軍事的空白なしに「米軍の駐留」を継承させるのが第一義的目的であり、日本への外国の武力侵攻などに対しては「援助を与えることができる」とだけ記されている。なお、この安保条約は10年後の1960(昭35)年、岸信介内閣により改訂調印され、双務的条約として発展維持されることになる(60年安保条約)。
講和条約において、署名国のすべてが日本への賠償請求権を放棄した。そして日本の領土は、ポツダム宣言で規定された「本州、北海道、九州および四国ならびに一部の諸小島」という規定に基づいて、放棄すべき地域が具体的に明記された。しかし講和条約に署名していない国とは、平和条約の締結と国交正常化の課題が残された。それとともに、それらの一部の国との国境問題が残されたままになっている。
ソ連(現ロシア共和国)とは、1956(昭31)年、「日ソ共同宣言」を出して国交を正常化したが、平和条約締結には至らず、北方領土問題が残されている。中華人民共和国政府とは、1972(昭47)年、「日中共同声明」を調印し国交正常化を実現させた。大韓民国は講和の対象国ではなかったが、1965(昭40)年「日韓基本条約」が結ばれて正常な関係を結んだ。ただし韓国を朝鮮半島で唯一の独立国家としているため、北朝鮮とはなんら国家としての関係を持っていない。
◎黒沢明監督「羅生門」 ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞
*1951.9.10/ 第12回ベネチア国際映画祭で、黒沢明監督の「羅生門」がグランプリを獲得する。
黒沢明は戦前に東宝に入社し、すでに新進監督として頭角を顕していたが、戦後GHQによる民主化政策のなかで、連合国軍も乗り出すほどの東宝労働争議が勃発、映画が撮れなくなった黒沢らは組合から離脱して他社で映画製作を行っていた。脚本家橋本忍が、芥川龍之介の短編小説「藪の中」を脚色した作品を温めており、その脚本を入手した黒沢は、当時大映のワンマン社長として知られた永田ラッパこと永田雅一に直接掛け合い、撮影にこぎつけた。
撮影は大映京都撮影所で行われ、冒頭シーンには、撮影所前に原寸大の巨大な「羅生門」のオープンセットが建設されたが、これ以外の森の中での出来事シーンはほとんどがロケで行われた。1950年8月に完成、試写会が行われたが、永田社長は「こんな映画、訳分からん」と言って途中で席を立ったという。その難解なストーリー仕立てから、国内公開での評価は不評で興行収入も芳しくなかった。
ベネチア国際映画祭とカンヌ国際映画祭から日本に出品招請状が送られてきていたが、当時の映画会社には出展費用を捻出する余裕さえなかった。カンヌ国際映画祭に出展応募する作品はなく、ベネチア国際映画祭にも、出展作を探す依頼を受けていたイタリア映画会社の社長が、たまたま「羅生門」を観て感激、自費で出展させるという状況であったという。
翌年9月、ベネチア国際映画祭で上映されるや否や大絶賛を受け、金獅子賞を獲得した。しかし日本の製作関係者は一人も映画祭に参加しておらず、たまたま街にいたベトナム人男性に代わりにトロフィーを授与、この人物が黒沢本人だと誤解される一幕もあったらしい。
黒沢自身は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、受賞のことは妻の報告で知った。永田ワンマン社長は、受賞の報を聞き「グランプリって何や?」と言ったが、その後手のひらを返したように芸術大作路線に転じ、大映作品は次々と海外映画祭で受賞することになる。
映画は「羅生門」というタイトルではあるが、芥川龍之介の「羅生門」は冒頭シーンで追加されただけで、同じ芥川の「藪の中」に沿って物語は展開される。森の中で起こる殺人事件について、様々な関係者が登場してそれぞれ食い違う証言をするという展開で、真実は明らかにならない。「真実は藪の中」という言い回しは、この芥川の小説から来ている。
当時まだ米軍占領下にあり、政治経済のみならず、文化・スポーツなど社会面でも敗戦によって打ちひしがれていた日本人には、競泳で世界最高記録を樹立した古橋広之進、日本人最初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とならんで、黒沢「羅生門」のグランプリ受賞は、大きな自信と希望を与える出来事であった。
なお平安京の朱雀大路南端、都の出入り口に築かれた門は「羅城門(らじょうもん)」と表記されるが、「羅生門(らせいもん/らしょうもん)」の表記も併用される。現在はその跡地にある小公園に、石碑が一本建てられているのみである。
(この年の出来事)
*1951.6.20/ 政府は公職追放されていた石橋湛山など、7万人の第1次追放解除を発表、8.6には、鳩山一郎・岸信介など1万4千人が第2次追放解除となる。
*1951.10.16/ 共産党第5回全国協議会が開催され、「51年テーゼ」が採択される。これにより、主流派主張の武装闘争を打ち出し、極左冒険主義路線を歩む。
*1951.10.24/ 社会党が第8回臨時党大会で、講和・安保両条約をめぐって左派と右派に分裂する。
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