2020年10月24日土曜日

【20C_s2 1938(s13)年】

【20th Century Chronicle 1938(s13)年】


◎岡田嘉子 恋の逃避行

*1938.1.3/ 女優の岡田嘉子が、新協劇団演出家杉本良吉とともに、樺太国境を越えソ連に亡命する。


 1937(昭12)年12月27日、サイレント映画時代のトップ映画女優であった岡田嘉子は、左翼演劇新協劇団の演出家杉本良吉とともに駆け落ちし、翌年1月3日、二人は厳冬の地の猛吹雪の中、樺太国境を越えてソ連に越境する。この事件は「恋の樺太逃避行」として、連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。

 日中戦争開戦に伴う軍国主義の下で、映画の出演機会の減少しつつある岡田と、共産主義運動への関与で執行猶予中の杉本は、ソ連への亡命を決行した。共産主義国家ソ連での自由を夢見た二人だが、不法入国した二人にソ連当局は厳しい取り調べを行った。思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いをかけると、拷問と脅迫で岡田はスパイ目的の越境だと認め、それ故さらに苛酷を極めた拷問で、杉本自身もスパイであると自白した。

 1939年9月、二人に対する裁判がモスクワで行われ、杉本は容疑を全面的に否認するも死刑判決で銃殺刑に処せられた。「人民の敵」のひと言で数百万が粛清されたスターリン独裁下のソ連を、あまりにもあまく見すぎた結果であった。

 岡田嘉子は、そのオランダ人の血を引くエキゾチックな美貌で、昭和初年代には脚光を浴びたスター女優であったが、奔放な恋愛遍歴からスキャンダル女優との評判も定着しつつあった。そんな中で、嘉子の舞台を演出した共産主義者の演出家杉本良吉と恋に陥って、ソ連への駆け落ちに至った。


 その後太平洋戦争が始まると、岡田嘉子の存在はすっかり忘れられていたが、戦後の1952(昭27)年、訪ソした女性参議院議員が嘉子の生存を確認、にわかに日本で関心が高まった。1967(昭42)年にはモスクワからの中継で日本のテレビに登場するなど話題を呼び、1972(昭47)年、35年ぶりに帰国した。帰国後は、映画「男はつらいよ」に出演したりテレビにも登場したが、ソ連でペレストロイカによる改革が始まると再びソ連へ戻り、1992(平4)年死去するまで日本へは二度と帰国しなかった。


 ソ連で捕縛された岡田は、自由剥奪10年の刑が言い渡されたあと、秘密警察の収容所に3年間収容され、さらにモスクワの内務監獄に5年間収容されたのち、1947(昭22)年に釈放された。ソ連当局は釈放前にモスクワ時代5年間の虚構の経歴を作り上げ、岡田にもそのように語らせたが、その間の彼女は極秘の任務につかされていたとみられている。帰国後、岡田嘉子はソ連幽閉時代の話をしているが、その多くは架空の作り話であったとされている。


◎三度にわたる近衛声明

*1938.1.16/ 第1次近衛声明発表。日中戦争は泥沼化へ。(国民政府を相手とせず)

*1938.11.3/ 第2次近衛声明で、武漢陥落後の新体制「東亜新秩序の建設構想」を発表する。(東亜新秩序建設に関する声明)

*1938.12.22/ 第3次近衛声明。汪兆銘ら国民政府投降派に呼びかけ、日中国交調整の基本方針として「善隣友好・共同防共・経済提携」の近衛三原則をうたう。(近衛三原則)


 1938(昭13)年1月16日、近衛文麿首相は、和平案提示に対して蒋介石率いる国民政府が応じないことを理由として、交渉打ち切りの声明を発表した。近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、駐華大使に帰国命令を発して外交関係を断ち、日本政府は国民政府との話し合いの接点を失うことになった(第1次近衛声明/国民政府を相手とせず)。

 1938(昭13)年11月3日に、近衛首相は再度声明を発表し、「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。この声明は、重慶に移転している蒋介石国民政府から、汪兆銘を離反させることにあり、汪はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している(第2次近衛声明/東亜新秩序建設に関する声明)。


 1938(昭13)年12月22日に、近衛は、対中国和平における3つの方針(善隣友好・共同防共・経済提携)を示した。これは、11月に日本側は汪派との話し合いで、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印し、直後に汪兆銘が重慶を脱出したことをうけてのものであった(第3次近衛声明/近衛三原則)。

 以上のように、第1次近衛内閣は、一年の間に三度も「近衛声明」なるものを出した。これは、和平交渉に応じようとしない蒋介石国民政府から、辛亥革命での孫文の本来の後継者的な立場にあった汪兆銘を切り離し、中国の代表の交渉相手とする狙いがあった。


 蒋介石国民党と毛沢東共産党とは、第2次国共合作が成立させ、抗日民族統一戦線を構築しつつあった。山間部でゲリラ戦に徹する共産軍にたいして、蒋介石国民党軍は日本の直面する敵であり、和平にも応じず頑強に抵抗姿勢を示したため、まず和平交渉を打ち切る第1次近衛声明(国民政府を相手とせず)を発表した。

 その後の日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にも蒋介石は和平に応じなかったため、和平グループの中心的存在となった汪兆銘を、重慶国民党政府から離反させることを企図し、第2次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)を出した。つまり提唱する「新秩序」に対応するなら、和平の交渉相手とするということで、その相手とは汪兆銘を指している。


 さらに続いて第3次近衛声明で、講和後の三原則方針を具体的に提示する。汪兆銘はこれを歓迎し、脱出先のハノイから「和平反共救国」を訴えたが、これに呼応する有力者は無く、重慶国民党政府は汪兆銘を永久除名しすべての地位を解除した。このすぐあと、早期停戦のツテを失った近衛は政権を投げ出す。

 近衛が与しやすしとして交渉相手に選んだ汪兆銘は、結局近衛と同じ優柔不断さで実権をもち得なかった。似た者同士が手を組もうとして失敗する例は、今でも多く存在する。交渉相手には、最も困難とされる実権をもつ相手を選ぶべきなのである。


◎国家総動員法

*1938.4.1/ 国家総動員法が公布される。


 1938(昭13)年、「国家総動員法」が第1次近衛内閣によって提出され制定された。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもので、当時、日中戦争の激化に伴い、平時の日本経済では中国での大軍の需要を満たすことが出来なくなっていた。

 国家が需要を提供し生産に集中させ、それを法律によって強制することで、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を達成し、また、国家が生産の円滑化に責任を持つことで企業の倒産を防ぐことを目的とした。労働者の雇用、解雇、賃金、労働時間などが統制され、物資動員計画では、重要物資は軍需、官需、輸出需要、民需と区別して配当され、優先順位が決められた。


 この法案は、ファシズム軍事独裁国家の総動員体制(国家社会主義)の共通事項のようにされるが、実は、ソ連の計画経済の影響をも受けていたとされる。近衛文麿自身、東京帝国大学哲学科から京都帝国大学法科大学に転学して、マルクス経済学者の河上肇らに学んでいる。また在学中に、オスカー・ワイルドの著作を訳し、「社会主義論」との表題で発表したが発禁処分となっている。

 近衛はマルクス主義者ではないが、統制経済的な国家社会主義的政策には強い関心を持っていたと思われる。これは近衛の属した貴族上流階級の、ノブレス・オブリージュ(高貴者の義務)風の義務感もあったと思われるが、実際には近衛の周辺には、尾崎秀美などコミンテルンのスパイが取り巻きとなっていて、影響を与えたともされる。


 また実際に、第1次近衛内閣の後の首相平沼騏一郎内閣のもとで、企画院において秘密裡にマルクス主義経済の研究がなされていたという「企画院事件」が発覚した。これは中央官庁の中にコミンテルン工作が入り込み、社会主義的統制経済が浸透しつつあったことを物語っており、それらの影響下での「国家総動員法」でもあったと考えられる。

 国家総動員法下の体制は、大政翼賛会や国民学校令の成立とも合わせて、「1940年体制」「昭和十六年体制」などとも呼ばれる。経済官僚が産業を統制する規制型経済構造という意味では、戦後の通産省主導の傾斜生産から、年功序列賃金や終身雇用制の成立期である高度成長経済に至る期間にも、その構造が温存されたという議論もある。政治は180度転換されても、経済構造は戦前戦後を通じて継続性が維持されていた。


◎津山三十人殺し事件

*1938.5.21/ 岡山県西加茂村の一青年が、病苦と失恋の痛手から乱心し、祖母など30人を日本刀と猟銃で殺害する。(津山三十人殺し事件)


 1938(昭13)年5月21日未明、岡山県西加茂村貝尾集落(現津山市)で、同集落に住む当時21歳の都井睦雄は、散弾銃やブローニング猟銃、そして斧や日本刀など周到な準備をして、同居の祖母に始まり次々と顔見知りの村民たちを殺害、その後自らも命を絶った。事前に送電線を切り村落を孤立させるなど周到な準備の上で、わずか2時間たらずの間に、深夜の暗闇で寝しずまった11軒の家を襲い、30人を死亡させるという前代未聞の惨劇を引き起こし、世間を驚かせた。

 その犯行動機は犯人死亡とあって不明な部分も多いが、睦雄が残した遺書には幾つかの理由が言及されている。結核のため兵役検査に事実上不合格となり、当時の結核は死病として差別されて、結びつきの強い閉鎖的村落で孤立したこと、そして、集落の複数の女性と性的関係があったことによる怨恨などが書かれていた。


 場所は中国山地の津山市街からさらに山間奥深く入った山村、当時は頻繁に停電が起こるので、犯人が事前に送電線を切断しても、誰も不思議に思わず早々に寝床に入ったという。電話もなく、隣町の駐在所まで村民が救援を求めて駆け付ける時間なども、事前に調べており、少なくとも明け方までは、完全に孤立した閉鎖空間での凶行となった。

 全23戸100人前後の村落住民は、互いに顔見知りであることは当然で、閉鎖空間の中で濃密な関係をもちながら生活している。そんな中での男女関係といえば、暗黙のうちで認知されたものであったろう。しかも、当時の村落には「夜這い」の風習が生き残っていたという話が漏れ伝えられると、下世話な庶民をさらに刺激することになった。


 夜這いの風習には否定的な証言もある。いずれにせよ、都井が複数の村の女性と関係を持っていたことはうかがえ、遺書の中では具体的に2名の女性をあげて、自分の肺病を忌避して他の男性と結婚したことが、襲撃の原因であると指摘している。さらに多くの村民を襲ったのは、自分の結核を理由に噂を言い広げたり、排除したことが理由に挙げていて、病気によって村の中で孤立を深めていったことが想像される。

 猟奇事件として噂が広がったのには、その犯行当日の犯人の異様な出で立ちにもあった。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた姿は「牛鬼」とも例えられた。首からはランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振りに斧、手には改造した猛獣用9連発ブローニング猟銃を持った。


  草双紙風のおどろおどろしい舞台を背景に、幾つものミステリーを描いた横溝正史は、この津山事件をモチーフにして「八つ墓村」を描いた。ミステリーに絶好の閉鎖空間性と、この犯人の牛鬼を思わせる出で立ちは、作家に絶好の題材を提供したことであろう。ほかにもノンフィクションで事件を描いたものなども数多く、映画化やテレビドラマ化で、何度もこの猟奇殺人事件は復元されている。


(この年の出来事)

*1938.2.1/ 大内兵衛・美濃部亮吉ら教授グループなど30余人が検挙される(第2次人民戦線事件)。

*1938.3.12/ ドイツ軍がオーストリアを併合する。

*1938.4.7/ 大本営が徐州作戦の実施命令を発する。5.19に、日本軍が徐州を占領。

*1938.10.27/ 日本軍が武漢三鎮を占領する。


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