2020年10月22日木曜日

【20C_s2 1936(s11)年】

【20th Century Chronicle 1936(s11)年】


◎二・二六事件

*1936.2.26/ 陸軍皇道派青年将校が約1,400名の兵を率い、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、東京朝日新聞などを襲撃する。(2・26事件)

*1936.2.29/ 戒厳司令部がラジオで「兵に告ぐ」を放送、反乱事件が収束へ。

*1936.7.5/ 東京軍法会議で2・26事件に判決。17名に死刑、5名に無期禁固。12日、15名に死刑執行。


 1936(昭11)年2月26日未明、日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1,400名にわたる下士官兵を率いて決起する。彼らが指揮する部隊は各方面を分担し、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞社を占拠した。

 決起青年将校らは陸軍首脳に「昭和維新」の断行を迫り、天皇の承認を信じて陛下の御聖断を要請したが、側近らを襲撃され統帥権を犯された昭和天皇は激怒し武力鎮圧を命じた。政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、蜂起部隊を反乱軍と規定し降伏を迫り、29日からは「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、アドバルーンや宣伝ビラを繰り出して帰順勧告が開始された。やがて投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉の自決未遂を最後に全員投降、4日間に及んだ反乱クーデターは鎮圧された。


 事件の背景には、統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚たち(統制派)と、政財界の堕落した特権階級を排除し天皇親政の実現を図る革新派の青年将校ら(皇道派)の対立があったと言われる。これには、陸大卒の軍幕僚キャリア組と、士官学校から下士官というノンキャリア組の対立構造と見ることもできる。


 陸軍中枢は、皇道派青年将校の動きを危険思想として監視させており、1934(昭9)年11月、クーデタ-を企図したとして皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計を逮捕した(陸軍士官学校事件)。さらに翌年7月、皇道派がリーダーとする真崎甚三郎教育総監が罷免され、皇道派と統制派との反目は度を深めた。これらの遺恨から、統制派の中心人物とされた永田鉄山陸軍省軍務局長が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こる(相沢事件)。

 これらの事件を受け皇道派排除の流れが強まり、それに危機を感じる青年将校らは、「蹶起趣意書」をしたためクーデターを実行しようとするが、その真のリーダーとなると特定しがたい。士官学校事件で軍現役から排除された村中や磯部は、真崎甚三郎大将や川島陸軍大臣を訪れ担ぎ出すことを意図したが、両者は言を左右して曖昧な態度を示した。


 青年将校らが属する東京の師団歩兵部隊第1師団の満州への派遣が決まると、青年将校らは決起すべきタイミングが来たと考えた。彼らの思想的指導者とされる北一輝や西田税も、時期尚早と考えていたようであり、実際に決起した将校の中には、彼らの思想的影響を受けたものは意外に少なかったとされる。結局、村中や磯部が、現役である野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などと申し合わせて決行したことになる。

 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。


 その後、粛軍の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った統制派は、永田鉄山亡き後の統制派を牛耳った東条英機に率いられ、日中戦争を開始し、日本は軍事ファシズムへの道を本格的にたどることになった。

 

◎阿部定事件

*1936.5.18/ 料理店の元女中、阿部定が荒川区尾久町の待合で情夫を殺害する。(阿部定事件)


 1936(昭和11)年5月18日、東京市荒川区の待合旅館「満佐喜」には、数日前から男女二人連れが逗留していた。この日の朝方、連れの人はよく寝ているので起こさないようにと言い残して、女の方が独りで旅館を出た。昼近くになっても女は帰らず、男も部屋から起きて来ない。不審に思った従業員が部屋を覗くと、そこに男が全裸で布団の上に横たわっており、赤い腰ひもで首を絞められて殺されていた。

 男の左の太ももには「定 吉二人」と血で書かれており、また、布団の敷布にも「定 吉二人きり」と同じく血で書かれていた。しかも、男の男性性器が根元から切断されており、切断された性器は発見されなかった。警察の調べで、被害者は中野区の鰻料理店「吉田屋」の石田吉蔵(42)、連れの女は吉田屋の女中で「田中かよ」と名乗っていたが、本名「阿部定(31)」であることが判明した。


 事件発生から2日後の5月20日、定は品川駅近くの旅館に泊まっており、大阪へ逃亡する予定で世話になった知人ら宛に別れの置手紙を書いていた。周辺を捜査中の刑事が、偽名で逗留しているらしき彼女の部屋に踏み込むと、「あたしがお探しの阿部定ですよ」とさらりと言ってのけ、ハトロン紙で包まれた吉蔵の性器を刑事に示しみせて、落ち着いた態度で逮捕に応じた。

 性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取り持ち歩くという猟奇事件として、新聞各紙には「狂的愛欲・幽鬼の妖婦 猟奇の殺人、阿部さだ逃走三日目遂に逮捕」などといったセンセーショナルな見出しが躍った。軍国主義的締め付けが激しくなる一方で、エログロナンセンスはガス抜きとして放置するという当局の姿勢も手伝い、世間は阿部定の話題で沸き立った。


 阿部定が、逮捕された時の報道写真で見せた「謎の微笑」も話題を増幅した。猟奇的事件を起こした女の見せる妖艶な謎の笑みは、高橋お伝以来の希代の毒婦とする一方で、男女の愛に殉じるファム・ファタール(運命の女)とするものまで、勝手な推測が独り歩きした。

 裁判では事件は痴情の果ての出来事と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役、1941(昭16)年の「紀元二千六百年」の恩赦を受け出所した。戦後もその事件故に、様々な境遇を転々として生き延びたが、1971(昭46)年65歳のとき、千葉県市原市のホテルで働いていて、最後に置手紙を残して失踪して以降の人生はさだかになっていない。


 その猟奇的な事件の話題性故に、阿部定の生前から、幾度も映画や小説のテーマに取り上げられている。1976(昭51)年の映画「愛のコリーダ "L'Empire des sens"」(大島渚監督)は、その内容の性質上フランスで制作され、カンヌ国際映画祭で上映、そのまま世界各国で公開されるが、日本では2000年にやっとノーカット版が公開された。 

https://eiga.com/movie/2585/


◎ベルリン・オリンピック大会

*1936.8.1/ 第11回オリンピック大会がベルリンで開催される。(8.1〜8.16)


 1936年8月1日、ベルリンの大競技場(オリンピア・シュタディオン)で10万の大観衆を前にヒトラーが開会を宣言。参加国49、選手3936名、実施競技21、種目129、これまでで最大のオリンピック大会が開催された。ベルリンでの開催はナチス政権成立前に決まっていたが、政権奪取したヒトラーは当初、オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとしてベルリン開催に難色を示した。しかし、「アーリア人種の祭典」として、世界にナチスドイツを宣伝する絶好の機会として方針変更、国の総力を挙げて開催準備を進めた。

 ナチスドイツが命運を掛け巨費を投じて、オリンピック・スタジアムをはじめ各種競技施設や五輪史上初の選手村が建設され、「民族の祭典」というキャッチフレーズのもと、壮大な開会・閉会式、国家元首による開会宣言、初のテレビ中継など、大会期間中の華麗な演出はまさに現代オリンピックの原型となった。


 さらに、今では当たり前の開会式「聖火リレー」は、この大会で初めて行なわれた。宣伝の手段として採り入れられた聖火リレーは、アテネからベルリンまでナチ隊員の伴走で実施された。ギリシャのオリンピアからバルカン半島を通りハンガリー、オーストリア、チェコなどを通るコースは、皮肉にも現在、シリア難民らが延々とドイツを目指すコースと重なる。ナチスドイツ政府は聖火リレーのルート調査と称して、ルート途上の各国の道路事情を綿密に調査したが、数年後に第2次大戦が勃発すると、この時の調査は、ナチスドイツのバルカン侵攻のために活用されたとも言われる。

 また、女性映画監督レニ・リーフェンシュタールによる記録映画「オリンピア(第1部 民族の祭典・第2部 美の祭典)」が製作され、ナチズムのプロパガンダに徹底的に活用された。この作品は、1938年のヴェネツィア国際映画祭で金賞を獲得する等、各方面で絶賛され不朽の名作とされた。しかし第2次大戦後、リーフェンシュタールは「ナチのプロパガンダに協力した御用監督」「ナチスの協力者」として批判され、映画界から追放され、戦後長らく黙殺された。

「オリンピア」 https://www.youtube.com/watch?v=ospSnqRysgY


 レニは厳密な意味でのドキュメンタリー作品であることにこだわらず、実際の競技映像ではない再現フィルムを加えたり、競技後に選手を集めて撮りなおした映像、効果音、アフレコなどを挿入して、独自の編集により斬新な映像を作り上げた。これらは現在のドキュメンタリーでは許されない手法とされるが、当時の貧弱な撮影環境では容認されるべきだという見解もある。ちなみに、当作品に強く感銘を受けた市川崑監督は、後年'64「東京オリンピック」の記録映画を制作し、こちらも創作的な演出を組み入れた映像により、「記録か芸術か」という議論を巻き起こした。

 記録映画「オリンピア」に表現されたように、圧倒的なドイツ国民の支持のもとに大成功を収めたベルリン五輪は、その「光」の側面の裏に、いくつもの「闇」が隠蔽されていたのは言うまでもない。ヒトラーの「アーリア人の勝利」というもくろみによって、ユダヤ人、ユダヤ系選手は排除された。ベルリンのロマ族(一般にジプシーと呼ばれる被差別移動民族の一部)は、警察により事前に一斉検挙された。オリンピック選手村の所長だったウルフガング・フルストナーは、オリンピックの2日後、ユダヤ人の子孫であるという理由で軍を退役させられ自殺した。


 ヒトラーはアーリア人種の優越を信じ、ユダヤ人以外の有色人種も露骨に嫌悪したが、そのようなヒトラーの思惑を覆した一人の黒人選手がいた。アメリカの黒人選手ジェシー・オーエンスは、100m・200m・走り幅跳び・400mリレーで4個の金メダルを獲得して大会のヒーローとなった。黒人を下等人種として蔑視していたヒトラーは、その活躍を苦虫を噛みつぶしたようにながめ、ヒーローを讃えようとしなかったという。

 日本選手団では、陸上三段跳びの田島直人が金メダルを獲得、韓国併合下で日本人として出場した孫基禎はマラソンで金、そして女子200m平泳ぎで前畑秀子が、地元ドイツのゲネンゲルの激しい追い込みを僅差で押さえ金メダルを獲得した。その有名な「前畑頑張れ」連呼の実況ラジオ放送は、日本の聴衆者に熱狂的な興奮を巻き起こした。


◎日独防共協定

*1936.11.25/ 日独防共協定が調印される。


 1936(昭和11)年11月25日、日本とドイツの間で調印された『共産「インターナショナル」ニ対スル協定』を指す。締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、国際共産主義運動を指導する「コミンテルン」に対抗する共同防衛をうたっていた。翌1937(昭和12)年にはムッソリーニの率いるイタリア王国が加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国間協定が成立し、やがて「日独伊三国軍事同盟」として枢軸国を形成する事になる。

 「コミンテルン」とは "Communist International" の略称であり、1919(大8)年レーニンらが設立した共産主義政党の国際組織で、「第三インターナショナル」のことを指した。当初のコミンテルンは世界革命の実現を目指す組織で、各国の共産主義革命運動を支援することになっていたが、レーニンの死後、スターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変化しており、各国の共産党がソ連共産党の方針・指令を一方的に受け取る組織となっていった。


 日本はソ連との対立を前提にしていたため、対ソの為の協定を望んでいたが、ドイツは対英のための牽制と考えるなど、両国の間には思惑の違いがあった。そこで露骨に対ソ協定と見なされないため、「国際的な反コミンテルン協定(防共協定)」とした。西ヨーロッパ戦線を前提にするドイツと、東アジア・中国戦線が念頭にある日本との戦略の違いは、その後も齟齬を生むことになる。いずれにせよ、第三国と戦端を開いたとき、ユーラシアに広がる広大なソ連に中立を維持させたいという思惑では一致した。

 1939(昭14)年、独ソ間で突発的に「独ソ不可侵条約」が締結された。これには防共協定の対ソ秘密議定書違反として日本は猛抗議し、日独の協定は事実上一旦消滅したが、独側代表として一貫して日独協定を推進したリッベントロップ外相は、日本に英米との対立を深めさせることで、ドイツ側の陣営に引き込もうとした。日本でもこの動きに呼応し、1940(昭15)年9月27日の日独伊三国同盟の結成に至る。かくして日本は、枢軸国の一端を占めることで、世界大戦に入り込む端緒を踏んだ。


 ヒトラーは三国同盟結成の時点で独ソ戦を決断しており、すでに独ソ関係が変化していたが、日本は1941(昭16)年4月、「日ソ中立条約」を締結する。しかしその6月、ヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻開始後、防共協定は本来の反ソ協定としての性格を明確に示すことになる。ドイツ降伏後には、ソ連も日ソ中立条約を破棄して満州から北海道に向けて侵攻を開始する。結局、この種の不可侵条約や中立条約が、一時的な戦争の繰り延べ以上の意味を持たないことを物語っている。


◎中国 西安事件により、第2次国共合作へ

*1936.12.12/ 中国国民政府の蒋介石が、東北軍の張学良に監禁される。(西安事件)


 西安事件は、1936年12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蔣介石拉致監禁事件で、事件収束に至る真相の詳細は、双方の当事者張学良と蒋介石がほとんど語ることがなかったので、いまだ不明であるが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたことだけは、事実である。

 柳条湖事件後、東北の地盤を失った張学良は、蔣介石から河南省・湖北省・安徽省の剿共(討共)に任命され、共産党軍の長征による北上を阻止する任務についたが、軍事的に劣勢に追い込まれると、やがて共産軍との接触を始め、1936年4月9日、張学良の働きかけによって周恩来・張学良会談が延安で開かれる。


 西北に地盤を持つ楊虎城は、自身の地盤維持を優先し、中央軍・共産軍どちらの進出も望まず、西安に進出した張学良にも非協力的だった。共産軍は中国政府軍の討共戦により追い詰められており、蔣介石は共産軍を殲滅するため、最後の軍議を西安で開き総攻撃をする状況であった。

 1936年10月、国民政府行政院長(首相)蔣介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を始めなかったので、蔣介石は攻撃を督促するために12月4日に西安に入った。


 1936年12月12日、張学良に指令された拉致実行部隊が出動し、一方で、楊虎城の軍が蔣介石配下の将軍等が宿泊する西安賓館を襲撃した。蔣介石拉致実行部隊が到着すると、そのまま門内に侵入し、応戦する衛兵と銃撃戦となった。蔣介石は避難して岩間に潜むが発見され、捕らえられた。

 張学良は拘禁した蔣介石に対し8ヵ条の要求を突きつけ、同内容を国府の要人に送付した。そのなかに「共産党の討伐停止」が入っており、ここから中国の内戦は様子が変わってくる。監禁された蔣介石は、張学良の要求を拒絶し、国民政府は張学良の軍事討伐を決め、中国全国の将軍らは、中央政府への支持と張学良討伐の意向を伝えて来た。


 張学良の目算通りには各地将軍が動かず、一般世論からも批判が集まり、張学良は形勢が不利となったため、妥協条件を協議し始めた。この間、蔣介石夫人宋美齢は迅速に動き、蔣介石と張学良宛の書状を送った。不利な立場の張学良はこの書状に応じ、蔣介石からも砲撃中止命令が伝えられた。

 12月25日、蔣介石は解放され、国民政府の慰留で南京に帰還する。張学良は西安クーデターの敗北を認め、その後に西安に戻り、以後、政治の局面に顔を出すことがなかった。翌1937年2月の三中全会では、西安事件をうけて国民政府が態度を硬化し、中国共産党の完全掃滅を決議した。


 しかし1937年7月7日、盧溝橋事件が起り日中戦争が勃発すると、国民政府は中共掃滅を放棄し、第2次国共合作が成立する。蔣介石と周恩来との間でどのような会談が持たれたかは、張学良ら当事者は、戦後になっても一切語らなかった。

 この西安事件を契機に、中国共産党が生き延び、さらに日本軍が敗戦して空白ができると、毛沢東が蒋介石を追い出し、中共が成立するという歴史の大きな転換点となった。しかし西安事件の経緯は、関係者が黙して語らないという不思議な帰着であった。


 推察に過ぎないが、この帰結の背景にはソ連スターリンの意向が働いたと言われる。蒋介石を殺さず、国共合作で日本に対抗させて、対独対策に集中するという狙いだったというわけだ。しかもソ連に留学中だった蒋介石の息子 蔣経国を人質にして、蒋介石に国共合作を認めさせたともされる。それなら、蒋介石が経緯を語れないわけである。


(この年の出来事)

*1936.3.9/ 広田弘毅内閣が、陸軍の介入で難航の末に成立。

*1936.5.18/ 内閣が陸・海軍大臣現役武官制を復活、これにより陸・海軍の意向で組閣が難航する。

*1936.11.7/ 帝国議会議事堂(現国会議事堂)が落成する。


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