【20th Century Chronicle 1927(s2)年】
◎昭和金融恐慌
*1927.3.15/ 東京渡辺銀行と系列のあかぢ貯蓄銀行が突然休業。金融恐慌が始まる。
*1927.4.5/ 鈴木商店が、新規取引中止を発表して破綻する。
*1927.4.22/ 3週間のモラトリアムが施行され、全国の銀行は一斉休業する。25日に営業を再開し、パニックは沈静化する。
1927(昭2)年3月15日、前日の議会で若槻内閣の片岡蔵相が、東京渡辺銀行が破綻したと失言したことが、この日の新聞に掲載されると、関東の銀行を中心として一斉に取り付け騒ぎが起こった。騒ぎが広がり金融恐慌の様相が高まると、これに対し日銀が21日より非常貸出を実施して、一旦は沈静化に向かうかと思われた。
しかし3月27日、台湾銀行が鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告すると、4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれた。この当時、三菱商事、三井物産に匹敵する売り上げをもち、財閥をも形成しつつあった大商社「鈴木商店」であったが、その絶頂期は第1次大戦の好景気時であった。やがて戦後不況にくわえて関東大震災の打撃により、もともと脆弱な財務体質の上に、多大な借入金の負債を抱えていた。その融資の多くは政府系の台湾銀行が引き受けており、政府は台湾銀行の立て直しという課題も抱えていた。
台湾銀行は、日本統治下にあった台湾に拠点をもつ政府系特殊銀行で、台湾の中央銀行的な機能も持つ国策銀行であった。時の若槻内閣は、台湾銀行救済のため大規模特別融資を画策するが、枢密院に拒絶され、台湾銀行は休業に追い込まれた。この結果うけて、若槻内閣は総辞職することになり、政府系の銀行さえ救済されない状況に、さらに多くの銀行が休業や破綻にいたり、金融恐慌は深刻さを増した。
一連の混乱の中で、日銀は非常貸出を続けて現金供給に努めたが、ついに紙幣の在庫が底をつきかける事態であった。若槻内閣のあとを受けて組閣した立憲政友会田中義一内閣は、ベテラン財政家の高橋是清を蔵相に起用し、金融恐慌の解決を図った。高橋はモラトリアム(支払猶予令)を実施すべく、緊急勅令を枢密院に容認させた。
4月22日、全国の銀行に2日間の一斉休業を要請すると、同時に現金の供給に全力を尽くし、片面印刷だけで裏が白紙の急造200円札さえ用意させた。4月25日に再開された銀行窓口にはそれらの紙幣の束が積み上げられ、取り付けに来た人々を安心させたという。同時に、500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して、3週間後のモラトリアム終了日には、金融恐慌を収束させることに成功した。
◎日米友好の「青い目のお人形」
*1927.3.18/ 「青い目のお人形」の歓迎会が、横浜港に停泊中の天洋丸で開催される。
日露戦争後、満州の権益をにぎった日本と、中国進出をうかがうアメリカ合衆国との間には政治的緊張が高まっていた。また、アメリカ本国には日系移民が大量に移住し、アメリカ人の労働を奪うとして反感が強まっていた。そして米では、1924年ジョンソン=リード法(排日移民法)が成立し、日本国内では反米感情があおられた。
そんな中、日米の感情対立を懸念したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士は、「日本の雛祭りに人形を送ろう」と全米に呼びかけ、子供同士の日米交流を重視した親善活動を開始した。日本側でも、財界の重鎮である渋沢栄一が彼の提唱に共感し親善事業の仲介を担った。
やがて、全米の家庭などから集められた総計12,000体をも超える「青い目の人形」は、日本に向う貿易船に分乗させられて、次々に横浜・神戸港に到着した。3月3日の桃の節句には、東京・大阪で歓迎式典が行われたあと、全国各地の小学校・幼稚園に配布され、一部は一般家庭にも贈られた。
アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた後、日米関係委員会委員の渋沢栄一が外務省から依頼され、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された市松人形がアメリカに贈られることになった。桃の節句に贈られた人形への答礼として、日本からもクリスマスに人形を贈ろうということであった。
先に到着した人形に遅れて、ミス・アメリカ及び各州代表48体の人形を乗せた天洋丸は、天候不良により遅延し3月14日に神戸港に到着、この3月18日に児童たちの出迎えを受けて歓迎式典を開かれた。代表人形は皇室に献上された後、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館)の上野別館に建てられた人形の家に展示されていたが、戦火の混乱でその殆どが行方不明となったとされる。
日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第2次世界大戦)中には、敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が隠し保存した人形が戦後に発見され、現存する人形は2016(平28)年5月現在、334体が確認されているという。
童謡「青い目の人形」 https://www.youtube.com/watch?v=OYFi5EVS6FQ
「あおい眼をしたお人形は アメリカ生れのセルロイド・・・」
この「青い目の人形」という童謡を、幼い時に歌ったり聴いたりした人は多いだろう。この曲は実はこの時に贈られた人形を歌ったものではなく、先行する1921年に野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されている。独自に日米の友情を築く意味で作られた楽曲であり、直後に起きた関東大震災のときには、アメリカで義援金を募る際にこの曲が歌われた。そしてまた、その後に贈られた人形たちも、この曲にちなんで「青い目の人形」と呼ばれたのであった。
◎第1次山東出兵
*1927.3.24/ 北伐を開始した中国革命軍が南京に入場、統制がとれていない兵は、外国領事館を襲撃し略奪を始める。数時間後、長江停泊中の米英軍艦による報復砲撃で鎮圧される。
*1927.5.28/ 国民革命軍の北伐を阻止するため、関東軍に出動命令が下る。(第1次山東出兵)
1911年、孫文らによる「辛亥革命」で清朝が崩壊すると、翌1912年孫文を臨時大総統とする「中華民国」が成立した。しかし海外亡命生活が多かった孫文に対して、中国本土で実質上の実権を掌握する軍閥袁世凱が、孫文に代って大総統に就任して北京政府が成立した。
1914年第1次世界大戦が勃発すると、その混乱につけ込み日本から対華21ヵ条要求を突きつけられ、袁世凱はこれを認めることになる。袁世凱は対外勢力に対抗するために強力な独裁体制が必要として、「中華帝国」を設立し皇帝即位を宣言する。しかし内外からの反対のもと、まもなく袁世凱が病死すると、中国国内は列強と手を結んだ地方軍閥により「軍閥割拠」の状況となった。
袁世凱に追い出される形だった孫文だが、1924年1月20日、中国共産党との第1次国共合作を成立させると、軍閥の支配下にあった北京政府や各地の軍閥に対して、全国統治を目指して中国革命軍による「北伐」を開始した。しかし孫文は1925年3月に北京で客死、その後継となった蒋介石は、国民革命軍による本格的な北伐を進め、ここに山東省に権益を展開していた日本と衝突することになる。
第1次世界大戦中、ドイツ帝国の権益であった山東省や青島などを奪取した日本は、五・四運動で反日運動などもあったが、山東省に一定の権益を確保していた。蒋介石が北伐を開始したあと、1927年3月24日に南京事件、4月3日に漢口事件が起こって、日本人の生命財産が侵害される事件が起きた。
この第1次出兵は、北伐軍の内紛などで衝突もなく撤兵することになるが、さらに翌年5月にかけて、さらに第2次、第3次の出兵をする事件が起こる。ただし田中内閣は北伐への不干渉を表明しており、軍も不用意に戦線を拡大することはなく、この当時はまだ文民統制が維持されていたと言える。
とはいえ、第3次山東出兵では北伐軍との戦闘を起こし、相手方に数千名の死者を出したとされ、のちに遺恨を残す。そして、関東州に展開した関東軍は、やがて勝手な動きを進め、満州の軍閥張作霖を爆殺する事件(満州某重大事件)を1928年6月4日に起こすなど、やがて満州事変から日中戦争へと深入りしてゆくことになる。
◎芥川龍之介 自殺
*1927.7.24/ 作家 芥川龍之介(36)が自殺する。
文壇の鬼才と呼ばれた芥川龍之介が、1927(昭2)年7月24日の未明、田端の自宅で、歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。一説では、青酸カリの服毒自殺だとも言われる。遺書として、妻・文に宛てた手紙、友人菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙などがある。また、死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」では、自殺に至る心理を詳述しており、中でも自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は一般に流布した。
しかし一方で同文中で、レニエという作家の自殺者を描いた短編作品に言及し、「この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない」とも書いている。自殺者当人が、自身の自殺する理由を知っているとするのは、残された人間の思い込みに過ぎない。それは本人でも特定できるものではないし、またそういう特定の原因を明示できるものでもない。それを芥川は「ぼんやりした不安」と書いたに過ぎない。
芥川龍之介は、幼時に生母が精神に異常をきたしたため、生母の実兄の養子とされ芥川姓となる。芥川家は江戸時代、徳川家の茶の湯を担当した家系で、家中に江戸の文人趣味が残っていたとされる。学業優秀で、第一高等学校に入学、同期入学に久米正雄、松岡讓、菊池寛、井川恭(恒藤恭)らがいた。東京帝国大学文科に進むと、一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌「新思潮(第3次)」を刊行、さらに、第4次「新思潮」を発刊することになると、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛された。
東京帝国大を卒業すると、海軍機関学校の英語教官となるとともに、初の短編集「羅生門」を刊行して、新進作家として華々しくデビューした。文芸活動の初期には、「羅生門」「鼻」「芋粥」など歴史物やキリシタン物など、明確なテーマとストーリー性をもつ短編作品を発表して人気を博した。
中期になると、エゴイズムなどの心理をえぐった初期に対して、「地獄変」などの中編で芸術至上主義的な傾向を示し、作品の芸術的完成を追及した。しかしやがて「安吉もの」など、身辺から素材を採った私小説風のものに転換してゆく。そして晩年になると、「河童」など寓意作品で人間社会を冷笑的に扱うとともに、最晩年では「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」「蜃気楼」「歯車」など、ほとんど自伝的な内面の告白となってゆく。
この時期、長編を得意とする成熟期の谷崎潤一郎と誌上論争を展開し、「物語の面白さ」を主張する谷崎対し「話らしい話の無い」純粋な詩的小説を称揚した。だがすでに芥川の才能は衰弱しており、論争は、円熟した谷崎の圧勝の気配を呈していた。
はっきりしたストーリーとテーマで展開した初期の芥川であるが、本質的にはストーリー・テラーの才能はもっていなかった。明瞭な「筋をもつ小説」である初期の傑作も、そのほとんどは説話文学や中国古典などから素材を得たものであった。
晩年に気力体力が衰えるとともに、新規素材を漁りそれから構想を立ち上げる創作力が無くなると、晩年の悲鳴に近い内面告白となっていった。芥川の自死は、このへんの創作源泉の枯渇から引き起こされたとも言える。谷崎がそのマゾ資質から堂々と展開する妄想的物語にたいして、芥川は決定的に「妄想力」に欠けていたのである。
(この年の出来事)
*1927.1.7/ アメリカン電話電信会社(ATT)が、大西洋横断無線電話サービスを開始、ニューヨークとロンドンの直通会話が可能になった。
*1927.2.7/ 大正天皇の大喪の儀が、新宿御苑葬場殿で行われる。
*1927.6.20/ スイスのジュネーブで日米英3国の海軍軍縮会議が開催される。
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