2020年9月17日木曜日

【20C_m4 1911(m44)年】

【20th Century Chronicle 1911(m44)年】


◎鈴木梅太郎 脚気とビタミン

*1911.1.-/ 鈴木梅太郎、脚気の原因はビタミン不足と主張。


 今日、脚気(かっけ)といえば、ほぼ忘れられた病気となっているが、この時期、多くの死亡者を出す原因不明の重大な病気であった。江戸時代に江戸で白米を食べることが流行し、脚気の症状が多発した。その為、脚気のことを「江戸患い」などとも呼ばれたという。

 鈴木梅太郎は、東京帝国大学農科大学教授として、脚気病調査会で米糠の成分を研究する部門を担当、米糠と玄米と麦とには脚気を予防して快復させる成分があることに気付いた。鈴木は、糠の有効成分を濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たが、その純度不足のため効果が明示的でなかった。


 その時点で鈴木は、後の「ビタミン」の概念をはっきり提示していたが、当時の学界の混乱により世界から注目されず、ビタミンという用語も、鈴木より後に米ぬかの効能を研究したカシミール・フンクによって為された。その8年後の1919年、ようやく京都帝大の島薗順次郎がオリザニンを使った脚気治療報告を行い、脚気がビタミン(B1)の欠乏症であることが立証された。

 この時期、脚気は一般人にとっても難病であったが、帝国の陸海軍でも重大な病気として認識されていた。心臓脚気として死に至る前に、下肢がしびれ萎えるというのは、兵士として役に立たなくなることである。海軍では、経験的に白米食が原因と気付きつつあったが、陸軍ではその対応がかなり遅れることになった。


 その一因として、陸軍軍医総監として軍医トップであった森林太郎鴎外が名指されることがある。当時の脚気は、病原菌説と栄養素不足説とに二分されていた。最先端のドイツ医学を学んだ鴎外は、病因の因果関係を重視するドイツ医学に沿って主流だった病原菌説を採り、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯食を軽視した。

 鴎外は「日本兵食論大意」で、「米食と脚気の関係有無は余敢て説かず」と書いている。つまり、兵食の栄養学的研究を行っていた鴎外にとって、原因の究明は自分専門外であるので、既存の説に従ったまでだということらしい。しかも、日本国内の麦の生産量が少なく自給できていなかったので、外国を敵に回す兵士の食は、国内で自給できる食物で賄うべきだという考えにも、それなりに妥当性があった。


 とはいえ、日露戦争時、陸軍で約25万人の脚気患者が発生、約2万7千人が死亡する事態となり、陸戦での苦戦の要因になったことは否定できない。鴎外は、乃木大将に頭が上がらないわけである。明治帝に乃木希典が殉死したとき、鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」で、殉死の名誉を描いた。



◎初の女性による文芸雑誌「青鞜」創刊

*1911.9.1/ 平塚らいてう(雷鳥)らが、日本最初の女性による文芸雑誌「青鞜」を創刊する。


 1911(明44)年9月、「平塚らいてう」(平塚明[はる])ら5名が発起人となり、女流文学社・フェミニストの団体「青鞜社」を結社し、機関誌として婦人月刊誌「青鞜」を発行した。青鞜社は、最初の女性啓蒙運動団体として、婦人解放運動を精力的に展開した。

 「青鞜」の名は"Bluestocking"の和訳で、創立を支援した生田長江がつけた。18世紀のロンドンで、教養ある婦人の知的な文芸サロンのシンボルとして、青い色のストッキングが採用された事からひいたものである。ただし本来の英語では、インテリぶった女性たちを揶揄するニュアンスで用いられることもある。


 この明治末期の日本の女性は、良妻賢母が望まれる女性像であり、選挙権はなく、治安警察法で女性の政治活動は禁止されていたが、欧米に起こりつつあったフェミニズムが、日本にも少しずつ伝えられてきており、その波をくみとった動きでもあった。

 創刊号の表紙は、長沼智恵子(高村光太郎の妻/「智恵子抄」)が描き、巻頭を与謝野晶子の詩が飾った。そして平塚が、有名な「元始女性は太陽であった」に始まる創刊の辞を載せ、ここに初めて「平塚らいてう」の筆名を使った。創業時の社員には、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)・野上八重子・水野仙子らが名を連ね、賛助員には、長谷川時雨・与謝野晶子・森しげ子(森鷗外の妻)・小金井喜美子(森鴎外の妹)・国木田治子(国木田独歩の妻)らが名を連ねた。


 社員には集散があり、翌年には尾竹紅吉(一枝)・神近市子・伊藤野枝らが参加したが、紅吉は、五色の酒を飲んだこと、叔父に連れられ吉原に登楼したこと、相愛だった平塚に男友達ができたことなどを、奔放に書き綴ってスキャンダルとなる。

 また、神近市子はのちに、愛人だった大杉栄を伊藤野枝に奪われて、大杉を刺傷し、日蔭茶屋事件を起こす。さらに伊藤野枝は、平塚が「若い燕」奥村博との同棲を始めて青鞜を放棄したあと、編集を任せられるが、その後大杉栄と同棲するとアナーキストに染まり、やがて「甘粕事件」で大杉とともに惨殺される。また、第2巻4号に姦通を扱った荒木郁の小説「手紙」が掲載さると、発禁となった。


 1912(明45)年新年号では、前年のイプセン「人形の家」上演に関連して、その評論を特集したため、ノラのような「目覚めた女性」を目指して「新しい女」を気取った青鞜の女たちを、既存の新聞・雑誌は、からかいを込めて「新しい女=ふしだらな女性」として特集した。女子英学塾の津田梅子は、塾生が青鞜に関わることさえ禁じた。

 青鞜側も、1913(大2)年1・2月号で「新しい女、其他婦人問題に就て」で反撃するが、その一部の所論が社会主義的であるとして発禁処置とされた。青鞜社の目的を「女流文学の発達」から「女子の覚醒」へと変更して、より社会に訴えるよう方針転換をするも、発行部数は減少していった。


 1914(大3)年1月、平塚は青鞜社で同居する形で、若い燕と称した奥村博との同棲を始めた。同棲を始めた直後、平塚は「独立するに就て両親に」という私信を「青鞜」に掲載するが、このあたりの公私のぐだぐださは、徳田秋江らに批判され、旧来の青鞜メンバーも次々と離れていった。

 「青鞜」の運営に意欲を失った平塚は、伊藤野枝にすべて任せて青鞜の編集から手を引く。伊藤野枝編集の青鞜は、貞操問題・堕胎問題・売娼制度など女性を巡る社会問題に重点を移し、もっぱら「無政府主義者の論争誌」と化した。そして1916(大5)年4月に野枝が大杉栄の許へ走ることで、無期休刊になった。


 その後、1918(大7)年婦人公論3月号で、与謝野晶子が「女子の徹底した独立」(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、平塚はこれに噛み付き、同誌5月号に「母性保護の主張は依頼主義か」(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表して、「母性保護論争」として社会的な現象になった。

 平塚らいてうと「青鞜」は、わが国のフェミニズムの嚆矢となったが、文芸運動なのか社会運動なのか、結局は一貫した方向性を示せず、「新しい女」たちの集合離散を繰り返すのみとなって行った。つまるところ、「ブルーストッキング=インテリぶった女性たち」の知的お遊びと、揶揄される側面を残してしまったとも言えよう。


◎ソルベー会議

*1911.10.30/ アインシュタインなど世紀を代表する科学者を集めて、ブリュッセルにおいて第1回「ソルベー会議」、開催さる。


 化学工業に欠かせない炭酸ナトリウムを、工業的に量産するソルベー法を開発し、ベルギーの化学者エルネスト・ソルベーは膨大な収入を得た。ソルベーは、ドイツの物理化学者ヴァルター・ネルンストの提案を得て、物理学の基礎理論を議論する国際会議を開催することになった。

 第1回ソルベー会議は、ベルギーのブリュッセルで開かれ、世界の錚々たる最先端物理学者たちが集まった。ざっと名前を挙げるだけでも、写真中央のM.キュリーを囲むように、E.ラザフォード、M.プランク、H.A.ローレンツ、H.ポアンカレ、M.ド・ブロイ、そして右から2人目には、すでに特殊相対性理論や光量子仮説を発表した若きA.アインシュタインなどが見られる。


 最先端の学者たちの議論は、出席しなかった世界中の若き学者たちをも刺激し、20世紀の物理化学の発展を促進した。図では第12回までの会議テーマを示したが、第1回の「放射(輻射)理論と量子」をはじめ、ざっと眺めるだけでも20世紀の物理化学をリードした会議だと想像できる。

 ソルベー会議は数年に1回不定期に開かれているが、最も有名な会議は1927年10月に開催された第5回ソルベー会議である。この会議の主題は「電子と光子」であり、世界中の高名な物理学者たちが、始まったばかりの量子力学について熱心に議論を交わした。同年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって不確定性原理が導かれ、量子力学の解釈を巡る激しい議論が繰り広げられたのもこの時期である。


 第5回の参加者写真を名前付きで掲げたが、こちらではアインシュタインが中央を占めている。この時すでに、アインシュタインは「一般相対性理論」を発表し、ノーベル賞も受賞して、世界に認められた存在となっていた。なんと、写真の29名中17名がノーベル賞受賞者が占める。「一般相対性理論」と「不確定性原理」は、まさに我々一般人の世界観をも変換せしめるものであった。

 なお、戦後日本で最初のノーベル物理学賞受賞者となった湯川秀樹も、戦前の第7回ソルベー会議に招かれ、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持った。彼らの理解が、湯川理論の認知を広めることになり、のちのノーベル賞受賞にもつながったと言える。


◎南極点到達 アムンゼンとスコット

*1911.12.14/ ノルウェーのアムンゼン隊、南極点に一番乗り。無念のスコット隊。(1912.1.7)


 1911年12月14日、ロアルド・アムンゼン率いるノルウェー探検隊によって、初の南極点到達が達成された。アムンゼンは1903年から5年にかけて、北部大西洋側から太平洋側へアメリカの北を回って航海する「北西航路」の、初の横断航海に成功していた。北西航路は当時、欧亜間の最短航路となると期待された航路であった。

 さらにアムンゼンは、北極点到達を目指したが、1909年アメリカのピアリーが最初の到達に成功したため、密かに目標を南極点に変え準備を進めた。ノルウェーを出発すると、出資者や乗組員にも秘密にしたまま南下し、北アフリカ近海のマデイラ諸島まで来て初めて南極を目指すことを通知した。


 アムンゼン隊はロス棚氷の北東部にあるクジラ湾から南極大陸に上陸し、そこにフラムハイム基地を建設した。1911年10月20日、アムンゼンは4人の選抜隊とともに、52頭の犬に4台の犬ぞりを引かせてフラムハイムを出発、南極点を目指した。途中好天にも恵まれ順調に隊は進み、12月14日人類初の南極点到達を果たした。帰路も順調に、翌年1月25日に全員無事にフラムハイムへと帰還した。

 一方、ロバート・スコット大佐ひきいるイギリス・スコット隊は、アムンゼン隊に先行する1910年6月1日、テラ・ノヴァ号で、第2回目の南極探検に出発した。10月27日ニュージーランドのウェリントンに到着し、ここでアムンゼン隊も南極点到達を目指していると知り、世間は南極点一番乗り競争と沸き立った。


 スコット隊は西側のロス島に上陸し基地を建設するが、デポ(前進基地)設営などに手間取り、初動で遅れをとった極地探険の本隊は、馬ゾリで11月1日に出発した。途中の悪天候で食糧が尽きると、ソリを曳く馬も射殺され食べられてしまう。ソリの牽引を馬に頼ったスコット隊は、人みずからの力でソリを曳かねばならなくなり、さらに行程は難航することになった。

 スコットら5名の極点到達メンバーは、1912年1月18日、苦難の末に南極点に到達した、そこにはすでに、一ヵ月前に到達したノルウェーの旗が翻っていた。失意のスコット一行の帰路には1500kmの雪原が横たわり、人力のみで重いソリをひく先には猛吹雪が待ち構えていた。1人死に2人がブリザードに消え、やがて3月29日までに全員が死亡したとされる。


 南極点到達を最優先目標としたアムンゼン隊に対し、スコット隊はあくまで科学探検隊だった。半年後、捜索隊によりスコットら遺体が発見されたとき、採集した岩石の標本などが最後のテントまでそれは運ばれていたという。テント内には、死の直前まで書かれた日記、スコット本人の遺書などが残され、最後の時期までの様子が伝えられた。

 中でも特筆すべきは、南極点に先着したアムンゼン隊が残し、後続隊に託した手紙であった。それは、アムンゼン隊が帰途全滅した場合に備え、自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを記した書類であった。皮肉にも、スコット隊によって、アムンゼン隊の南極点先着が証明されたのだった。


 アムンゼン隊が先着した理由には、その装備面に違いが指摘される。スコット隊は、雪中での行軍に不向きな馬ソリ中心に隊を編成したが、アムンゼン隊は、軽量で敏捷な犬に曳かせる犬ソリを採用したことが大きい。さらに防寒服は、スコット隊がおしゃれだが防湿に適さない牛革を採用したのに対し、アムンゼン隊は防寒防湿性に優れたアザラシ皮を用い極地に適していた。

 ほかにも、極地到達に徹したアムンゼンに対し、スコット隊は学術調査を重視し、余分な時間と経路をそれに割いたことも挙げられる。しかしそれ以上に、天候という運が大きく作用したことも否めない。人智を超えるような探険や冒険の場合、万全な準備をした上でも、運が左右することを示す悲劇でもあった。


 なおこの時、日本の探検家 白瀬矗(のぶ)陸軍中尉も南極探検に挑んでいた。1910(明43)年11月29日、白瀬は政府の支援を受けられず、木造帆漁船を改造した開南丸で、貧弱な装備のまま芝浦埠頭を出港した。アムンゼンは、白瀬の挑戦の情報を得たが、その装備を聞いただけでライバルでないと判断したという。

 白瀬隊は内紛をはらみながらも局地に向かったが、途上で極点到達は断念し、南極の学術調査と領土確保を目的とした。白瀬隊は、南緯80度西経156度あたりに達して、地点一帯を「大和雪原」と命名、日章旗を掲げ「日本の領土として占領する」と領有を宣言した。ただし、のちにこの地点は棚氷で、領有可能な陸地ではないことが判明している。


(この年の出来事)

*1911.2.21/ 明治政府の悲願、日米新通商航海条約および付属議定書に調印し、関税自主権を回復。

*1911.10.10/ 孫文の意を汲む軍人たちが蜂起、辛亥革命、一気に中国全土に飛び火。

*1911.11.1/ 鴨緑江に「世界にかける橋」完成。東京-下関-釜山-奉天-シベリア鉄道。


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