【19th Century Chronicle 1888(m21)年】
◎大日本帝国憲法の制定
*1888.4.30/ 枢密院が設けられ議長に「伊藤博文」が就任する。
*1888.4.30/ 伊藤博文の辞任にともない、「黒田清隆」が首相に就任し、黒田内閣が発足する。
*1888.6.18/ 「枢密院」が、大日本帝国憲法草案の審議を始める。
1881(明14)年の「国会開設の勅諭」の後を受けて、伊藤博文を中心とした明治政府は、憲法制定及び国会開設の準備を進めた。「明治十四年の政変」では、ドイツ流の君主大権を重視するビスマルク憲法を範とする「伊藤博文」は、イギリス流議院内閣制にもとづく憲法の制定を主張する大隈重信を政府から追放し、以降、憲法制定を主導した。
1882(明15)年には、伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を進めた。1885(明18)年に、太政官制を廃止して内閣制度を創設、伊藤博文自身が初代内閣総理大臣(首相)に就任し、着々と立憲体制を整えていった。
漸進的にプロイセン・ドイツ型国家構想を主張する井上毅は、実質的に明14政変を仕掛け、対立する大隈排斥に成功したあと、伊藤内閣のブレーンとして活躍した。井上毅は、伊藤に憲法草案を命じられ、伊東巳代治、金子堅太郎らとともに、法律顧問であったドイツ人ロエスレルらの助言の下で、1888(明21)年4月に成案をまとめ上げた。
その直後、伊藤は天皇の諮問機関として「枢密院」を設置し、首相を黒田清隆にゆずり、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の最高諮問機関とされ、天皇大権に基づいて、実質的に内閣や国会を超越して、国政に隠然たる権勢を誇ることになる。
枢密院は、伊藤により憲法草案の審議を行う組織として設けられたが、憲法発布・国会開設後にも、少数者による密室政治の温床として機能する。枢密院における憲法審議は、1889(明22)年1月に結了、1889(明22)年2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、「大日本帝国憲法」が発布される。
◎文学者 森鴎外
*1888.9.8/ 森林太郎(鴎外)がドイツ留学から帰国する。
森林太郎(鴎外)は、東京大学医学部卒業後、陸軍省に入省し、1882(明15)年22歳の時、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるために、ドイツ留学を命じられた。ドイツでは、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンなど各都市に滞在した。
ドイツ各地では、日本からの留学生と交流するとともに、当地の社交界にも顔を出すなど、社交的な研究生活を送った。ロンドンの下宿に引きこもって、書物相手の孤独な留学生活を送った、同時代人の夏目漱石とは対照的であった。4年後の1888(明21)年9月に帰国して、陸軍軍医学舎の教官に任ぜられた。
鴎外は、軍医業務に就くかたわらで、学生時代から親しんだ文学でも才能を発揮する。外国文学の翻訳(「即興詩人」「ファウスト」など)や、評論的啓蒙活動をつづける中で、1890(明23)年には、ドイツ留学での経験をもとに「舞姫」を書き、続いて「うたかたの記」「文づかひ」と、ドイツ三部作と言われる作品を発表した。
「舞姫」は、ドイツに留学中の主人公豊太郎が、ふとしたことでエリスというダンサーの少女と知り合い、恋仲におちいり同棲することになる。豊太郎は仕事の都合で帰国することになるが、妊娠していたエリスにはそれを告げられず煩悶する。やがて、そのことを知ったエリスは心労で発狂し、豊太郎は、後ろ髪を引かれつつも日本に帰国する。
当時珍しい異国での日本人と外国人の恋愛物語は話題を呼んだが、ヒロインのエリスにはモデルが有るのではないかと噂になった。実際、鴎外が帰国した4日後に、横浜に入港した客船の乗客名簿に、「エリーゼ・ヴィーゲルト」というドイツ人女性の名前が残されている。
エリーゼは1ヵ月ほど日本に滞在し、その間に鴎外とも面会し、帰国後も文通を続けたとされている。ドイツでの関係が「舞姫」に書かれた通りとは言えないが、憶測すれば、エリーゼは鴎外の後を追って日本にやって来た。しかし将来が嘱望される軍医官僚エリート森林太郎にとって、それはスキャンダルでしかない。それとなく説得されて、エリーゼは寂しく日本を去った、などという構図も考えられる。
しかし鴎外が「舞姫」を発表したのは、この出来事の2年後であり、むしろ逆に、エリーゼとの接触から触発されて「舞姫」を構想したのではないかとも考えられる。もし、ドイツ留学中にエリーゼとの関係があったのだとしたら、逆に「舞姫」のような物語を書くわけがないとも言える。
小説とモデルの関係は、さほど単純ではないであろう。留学中のドイツでは、東洋から来た留学生など眼中に置かれないであろうし、せいぜいが、場末のホールのダンサー兼売笑婦との一夜があった程度でしかない、と考える方が具体性がある。それを、エリーゼというドイツ女性と重ね合わせて、膨らませた結果「舞姫」が成立したのではないだろうか。
そんなことよりも、文学史上における「舞姫」の位置付けが重要である。ちょうどこの時期、山田美妙や二葉亭四迷によって「言文一致体」が試みられていた時期に当たる。いわゆる「口語文」の成立過程であるが、「口語」だから口で語るように書けばよいというような簡単なものではない。
当時は標準語とか共通語とかは無い時代で、初期の言文一致体は、江戸の話し言葉で書き記そうと試みられたが、とても読めるものにはならなかったという。本格的な言文一致体の最初と言われる、二葉亭四迷の「浮雲」でさえ、第一編は本人が不満だったという。
柄谷行人「日本近代文学の起源」によると、本来、ロシア文学翻訳家であった二葉亭四迷は、「浮雲第二編」を書くにあたって、まず得意なロシア語で書いて、それを口語文として翻訳したという。つまり文としての骨格は、ロシア語という西欧語によって形成されているというわけである。
同時期に書かれた「舞姫」は、文語体で書かれている。しかし、語尾活用や仮名遣いを変えるだけで、簡単に口語文に読み替えることが可能な文体であり、だからこそ容易に英訳可能だとも、柄谷は指摘している。ドイツ語に堪能であった鴎外は、ドイツ語で思考したものを文章化したから、文語体であっても口語文の骨格を持っているというわけだ。
すなわち、「言文一致体」や「口語文」というものは、決して話し言葉を文字に置き換えたようなものではなく、明治維新で西欧語にさらされた上での、「新しい文体」の創出であったということである。明治の文豪とされる森鴎外も夏目漱石も、積極的に言文一致体運動に関わった訳ではない。しかし、ドイツ留学で鍛えられた鴎外と、英文学と格闘した漱石は、ともに必然的に新らしい「口語文」の文体を伴って登場したのであった。
下記でどちらが読みやすいか、冒頭だけでも読み比べてほしい。
『舞姫』(森鴎外/青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/682_15414.html
『浮雲』(二葉亭四迷/青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1869_33656.html
(この年の出来事)
*1888.2.1/ 大隈重信が、井上馨の後任として外相に就任する。
*1888.4.3/ 志賀重昂・三宅雪嶺・杉浦重剛らが、国粋主義を主張する政教社を結成し、「日本人」を創刊する。
*1888.4.25/ 市制・町村製を公布する。
*1888.7.15/福島 磐梯山が大噴火し、死者461人、被害面積25k㎡ に及ぶ。
0 件のコメント:
コメントを投稿