【19th Century Chronicle 1882(m15)年】
◎壬午軍乱(朝鮮)
*1882.7.23/ 朝鮮の漢城(ソウル)で朝鮮兵が反乱をおこし、日本公使館を襲撃する。(壬午軍乱・壬午事変)
*1882.8.30/ 花房公使が、壬午事変の賠償金・公使館駐兵権などを認めさせた済物浦(さいもつぼ)条約および日朝修好条規続約に調印する。
1882(明15)年7月23日、「興宣大院君」らの煽動をうけて、朝鮮人兵士が、朝鮮の首府漢城(現ソウル)で、「閔氏政権」および日本に対する大規模な反乱を起こした。大院君は強固な旧守派で、鎖国政策をとっていたが、息子である国王「高宗」やその王妃「閔妃」を中心とする改革派によって失脚していた。
実権を握った閔氏一派の政権は、開国するとともに、日本の支援のもとで開化政策を進めた。閔氏政権は近代的軍隊を新設し、日本人教官を招致するなど軍隊改革を目指したが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことなどから、不満をつのらせた旧軍隊が暴動をひき起こした。
兵士たちに民衆も加わった暴徒は、閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館などを襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害した。さらに朝鮮王宮にも乱入し、閔妃は王宮を脱出したものの、反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が復活した。つまり、大院君一派が教唆煽動した事実上のクーデターでもあった(壬午軍乱)。
日本とともに、清国もまた朝鮮の宗主国として、反乱軍鎮圧の兵を派兵し、鎮圧に成功した。清は、漢城府に清国兵を配置、大院君を中国天津まで拉致し、その外交的圧力により閔氏政権を復活させた。日本は乱後の8月30日、清の斡旋の下、閔氏政権との間で「済物浦条約」を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。
清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、また、袁世凱を事実上の朝鮮国王代理として派遣し、朝鮮における実権を握った。それまで閔妃政権は、日本の協力をもとに開化政策をとっていたが、この乱の結果、朝鮮閔妃政権は清国に対していっそう従属の度を強め、朝鮮における親日勢力は大きく後退することになった。
(この年の出来事)
*1882.1.4/ 「軍人勅諭」が発布される。軍隊が天皇に直属することを強調し、天皇への絶対服従を説く。
*1882.3.14/ 参議伊藤博文が、憲法調査のためヨーロッパへ出発する。ドイツ・オーストリアで君主制憲法を学び、翌年8月3日に帰国する。
*1882.4.6/ 自由党総理板垣退助が、遊説先の岐阜で、暴漢に襲われ負傷する。(岐阜事件)
*1882.4.16/ 立憲改進党の結党式が行われ、大隈重信が総理に選出される。
*1882.5.29/ 東京でコレラが発生する。晩秋にかけて流行し、死者5076人(この年全国で、死者3万3784人に及ぶ)
*1882.6.27/ 日本銀行条例が定められる。(10.10 営業開始)
*1882.9.9/ 改進党系の東京横浜毎日新聞が、板垣退助の外遊資金の出所に疑惑を指摘、一方、自由党は、改進党と三菱会社の関係を攻撃し、両党で論争となる。
*1882.10.21/ 大隈重信・小野梓らが、東京専門学校を創設。のちの「早稲田大学」の前身となる。
*1882.11.28/ 福島県令三島通庸の道路工事強行に反対し、県民数千人が、道路工事中止の要求をかかげて警官と衝突する。12.1 福島県自由党幹部河野広中ら逮捕。(福島事件)
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