【19th Century Chronicle 1880(m13)年】
◎憲法制定・国会開設への動き
*1880.2.-/ 筑前共愛会本部が大日本憲法大略見込書を起草する。(初の民権派憲法案)
*1880.3.17/ 愛国社が、第4回大会を開催。国会期成同盟の結成などを決定する。
*1880.4.17/ 国会期成同盟の片岡健吉らが、国会開設上願書を太政官に提出する。
*1880.11.10/ 国会期成同盟が、第2回大会で大日本国会期成有志公会と改称し、次回大会に憲法見込案を持参することを決議する。
*1880.12.28/ 元老院が日本国憲按(第3事案)を天皇に提出するが、採用はされず。
明治の最初の10年を不平士族による武力反乱の時代とすれば、続く10年間の明治10年代は、言論による自由民権運動の時代と言える。西郷による西南戦争が鎮圧されたあと、板垣退助らは言論による民権運動に移行した。
民権運動は、明六政変による江藤新平、板垣退助らの下野とともに、愛国公党が結成され、民選議院設立建白書を提示したときに始まるが、江藤が建白書署名の直後に佐賀の乱(1874年)を起こし、梟首刑にされるなど、この時期はまだ不平士族の政府への反感が土壌にあり、民権運動も「士族民権」の時代とされる。
1878(明11)年に愛国社が再興され、1880(明13)年の第4回大会で国会期成同盟が結成されると、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を契機に、不平士族だけでなく、農村にも不満が浸透し、士族反乱と並んで地租改正一揆などが起きた。
政府は不平士族と農民一揆の連動をおそれて、地租を2.5%に軽減したため、富農層を中心に政治運動に関わる余裕も生まれた。このように、明治10年以降に生れ富農層などが参加しだした時期の運動を、「豪農民権」とも呼ぶ。富農層が中心となり、民力休養・地租軽減などが要求項目となると、都市ブルジョワ層や貧困層など、当時の政府の方針に批判的な多種多様な層が加わっていった。
国会期成同盟が、自ら憲法を作ろうと呼びかけると、植木枝盛による「東洋大日本国国憲按」など多数の私擬憲法が起草され、議会設立・憲法制定の機運は高まっていった。
参議大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881(明14)年、「明治十四年の政変」で、参議伊藤博文らによって罷免された。一方で、政府は当面の政府批判をかわすため、国会開設の必要性を認めるとともに、10年後の国会開設を約する「国会開設の勅諭」を出した。
以後、紆余曲折がありながらも、1889(明22)年「大日本帝国憲法制定」、翌1890(明23)年には第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。その後、政府・政党の対立は議会に持ち込まれ展開されることになる。
◎教育・民間統制の強化
*1880.4.5/ 集会条例が制定され、政治集会や結社に警察の事前許可が必要となり、軍人・教員・学生の集会参加が禁止される。
*1880.8.30/ 文部省が小学校教科書調査を行い、不適当と判断したものを各府県に通達し、使用を禁止する。
*1880.12.23/ 集会条例改正。警視庁長官と地方長官に結社の解散権などが与えられる。
*1880.12.28/ 教育令が改正され、教育への国家統制が強まる。
◎東京で私大の前身が、相次いで設立
*1880.8.-/ 相馬永胤・金子健太郎らが京橋に、経済学と法律学を柱とする専修学校を設立する。(のちの専修大学)
*1880.9.12/ 神田に、フランス法中心の法学教育を行う東京法学社が開校される。(のちの法政大学)
*1880.12.8/ 麹町に、フランス法中心の法学教育を行う明治法律学校が設立される。(のちの明治大学)
(この年の出来事)
*1880.7.17/ 「罪刑法定主義」による刑法、裁判の手続きなどを規定した治罪法が布告される。
*1880.11.5/ 官営工場払下概則を制定。
*1880.12.27/ 士族臼井六郎が、父母の仇一ノ瀬直久を殺害して自首する。(最後の仇討)
0 件のコメント:
コメントを投稿