2020年6月27日土曜日

【18C_1 1721-1725年】

【18th Century Chronicle 1721-1725年】

◎享保の改革
*1721.4.-/ 幕府が「大奥法度」を定める。
*1721.閏7.-/ 幕府が勘定所の職務を分割し、「公事方」(訴訟関係)と「勝手方」(農財政)を定める。
*1721.8.2/ 幕府が評定所門前に「目安箱」を設置する。
*1722.4.6/ 幕府が「質地流禁止令」を出す(1723.8 撤回)
*1722.5.15/ 幕府が老中水野忠之を勝手係老中とし、幕府財政の再建にあたらせる。
*1722.7.3/ 幕府が諸大名に1万石につき100石の割合で「上げ米」を課し、代わりに参勤期限を短縮する。
*1722.7.26/ 幕府が日本橋に、諸国新田開発奨励の高札を立てる。
*1722.11.8/ 幕府が出版条目5ヶ条を出し、好色本の禁止など庶民の風紀を規制する。
*1722.12.7/ 幕府が小石川薬草園内に養生所を設ける。
*1723.2.20/ 幕府が心中者に厳しい罰則を定め、心中を改め「相対死」と公称する。
*1723.6.18/ 幕府が「足高制」を定め、役職に応じて俸禄を支給。有能な人材を登用できるようにする。
*1723.7.18/ 幕府が紀州藩士井沢為永を勘定衆に起用、紀州流の新田開発方式を導入する。
*1724.2.15/ 幕府が米価下落対策として、物価引き下げ令を出す。
*1724.6.15/ 江戸町奉行大岡忠相が「享保度法律類寄」を編纂して幕府に提出する。
*1724.6.23/ 幕府が大名・旗本に倹約令を出し、また商人の妻女の華美な衣服を禁じる。
*1724.7.21/ 幕府は浅草蔵前の札差株を109人に限定、株仲間を結成させ、高利貸付を防止する。
*1725.11.-/ 幕府は米価下落防止のため、3人の江戸商人に、大坂での買米と米会所(相場所)の設立を許可、米相場の統制を図る。

 8代将軍徳川吉宗は、享保元(1716)年、家継が早世した後を受け将軍に就任し、延享2(1745)年、将軍職を長男家重に譲るが、寛延4(1751)年に死去するまで、大御所として実権を握り続けた。吉宗は将軍職に就くとともに、「享保の改革」と呼ばれる一連の幕政改革に着手し、35年にわたる実質治世の間に、多くの施策を展開した。

 吉宗は将軍に就任すると、正徳の治を主導した新井白石や間部詮房らを罷免、本家筋ではなかった吉宗の指導力を高めるため、紀州藩の人材を多く幕臣に登用した。また「足高の制」を定め、身分の低い者も登用できるように、職務に応じて俸給を補填するようにした。


 最も逼迫した課題は、幕府財政の建て直しであった。主たる方策は増税と倹約であり、年貢を強化して四公六民から「五公五民」に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収する「定免法」を採用して財政の安定化を図った。一方で、新田開発を推奨し米の増産を図るとともに、飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培を奨めたり、商品作物や薬草の栽培を奨励した。

 さらに、諸大名の領地1万石につき、100石の割合で米を徴収し、その代わりに、江戸参勤の在府期間を半年に猶予するという「上げ米の制」を導入し、幕府の年貢収入のおよそ10%を確保した。しかし財政の逼迫は諸大名とも同じであり、これはあくまで一時的な財政策にしかならず、わずか10年に満たない期間で廃止された。


 吉宗は在任期間を通じて、幕府収入の根幹となる米価の安定に腐心し「米公方」と呼ばれた。主として年貢米として物納される米は、大坂などの米相場会所で換金して幕府や大名の財源となる。しかし、新田開発などで米を増産する一方、質素倹約の奨励で物価を抑える政策は、趨勢的な米価低落をもたらし幕府の財政収入を脅やかした。

 一方で民政の安定にも労を割き、「公事方御定書」を編纂した。従来の慣例や町奉行などの差配によって為されてきた司法判断を成文化し、訴訟事処理の効率化と刑罰などの客観化が達成された。他方、金銭貸借についての訴訟(金公事)に関しては、「相対済令」によって当事者間の話し合い(相対)による解決を命じた。これは窮乏した旗本・御家人らの事実上の借金踏み倒しに目を瞑ることで、一種の救済策ともなった。


 江戸・大坂・京都などの大都市が出現するにあたって、都市住民の民心安定も重要課題となり、「目安箱」を設置して庶民の要求や不満の声を直接反映させる途をひらいた。これにより、町火消し組織の創設や小石川養生所を設置などが実現された。一方で紀州藩士による「御庭番」という将軍直属の調査組織を創設し、秘密裡に大名や庶民の動向を諜報させた。

 御庭番と言えば、時代劇などでは忍者やスパイのように描かれることが多いが、名前を変えて隠密として必要に応じて各地に派遣されたが、それぞれの実態調査や人心掌握が主たる業務で、単なる監査活動に近かったという。また吉宗は、若いころ大へんな暴れん坊で、背の長け6尺(180cm)もある偉丈夫であったという話も、それらを示す資料はなく、身長も5尺2寸(156cm)程度で、当時の平均値に近かったとされる。


(この時期の出来事)
*1721.4.1/ 幕府が死罪の農民・町人に対する縁座制を大幅に制限する。
*1724.11.21/ 浄瑠璃・歌舞伎台本作者、近松門左衛門(72)没。
*1725.5.19/ 正徳の治を進めた新井白石が、失意のうちに逝く(69)。
*1725.9.3/ 江戸の豪商で、大尽遊びの限りを尽くした2代目奈良屋茂左衛門が没す(31)。

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