2020年6月25日木曜日

【18C_1 1711-1715年】

【18th Century Chronicle 1711-1715年】

◎正徳の治
*1711.2.7/ 幕府は新井白石の建言にそって、対馬藩主宗義方に、朝鮮通信使に対する礼遇を改めるよう通知する。将軍の称号も日本国大君から「日本国王」に改めさせる。
*1711.40.25/ 宝永8(1711)年4月25日、新井白石の提言により「正徳」と改元。これに伴い幕府は、高札(幕府が庶民に示す心得書)の書き換えを指示する。
*1712.春/ 新井白石が、将軍家宣に国史の進講を始める。十数年前に家宣が甲府藩主綱豊であった時から、白石は侍講として進講していて、家宣の信任が厚かった。
*1712.7.1/ 幕府は、新井白石の建議により勘定吟味役を再び置く。
*1712.9.11/ 幕府は、勘定奉行萩原重秀を罷免する。
*1713.3.-/ 新井白石が、密入獄したイタリア人宣教しシドッチに審問して得た外国知識をまとめて「菜覧異言」を著す。
*1713.4.23/ 幕府は、幕府領を統治する代官所役人の綱紀粛正を指示する。
*1713.6.-/ 新井白石が、貨幣改鋳に関する意見書「改貨議」を幕府に提出する。
*1715.1.11/ 幕府は中国・オランダとの貿易を制限する「正徳長崎新令」を定める。
*1715.-.-/ 新井白石が「西洋紀聞」を著す。

 新井白石は没落した下級武士の出で、浪人するなど貧窮をきわめたが、独学で学問を続け、朱子学者木下順庵に入門することで、頭角を現した。白石は順庵の推挙で、元禄6(1693)年甲府藩主の徳川綱豊に仕官する。宝永6(1709)年綱吉が亡くなると、綱豊は48歳で第6代将軍に徳川家宣として就任する。

 家宣は家光の孫で綱吉の甥にあたるが、綱吉が継嗣を儲けたいと、生類憐みの令を乱発して長く将軍に留まったため、かなりの年齢となってからの将軍就任となった。学問好きの家宣が将軍になると、白石はそのまま将軍に学問を進講する任につき、幕政に関しても白石の意見を重用した。


 綱吉の側近として重用された柳沢吉保は隠居し、家宣は間部詮房を側用人老中格として引き立てた。無役の旗本で将軍侍講(政治顧問)に過ぎない白石は、直接幕政に関わることができない地位だった。そこで間部を介すことで、両人で将軍家宣の参謀として働き、「正徳の治」と呼ばれる幕政改革を行うこととなった。

 綱吉の晩年に緩み切った幕政の綱紀を、建て直すのが最初に手を付けるべきことだった。まず、綱吉時代に乱発されて悪評高かった「生類憐みの令」を廃止した。また経費を削減するため、朝鮮通信使に対する礼遇を改めるよう、対馬藩主宗義方に通知し、将軍の称号も日本国大君から「日本国王」に改めさせて、対外的に将軍の地位を明示的にした。


 経済政策は、綱吉の時代から引き続き勘定奉行荻原重秀が担っていたが、元禄期に、高純度の慶長金銀を金銀含有率の低い元禄金銀に改鋳(改悪)し、家宣時代になっても将軍の承諾なく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補っていた。その結果、約500万両にも及ぶ改鋳差益が幕府財政を潤した。

 しかしその結果、貨幣の相対価値が低下し、物価騰貴とインフレーションを惹き起こしていた。しかも荻原は、貨幣改鋳差益の一部を私腹を肥やすのに流用するなどの汚職の噂も囁かれた。白石は萩原が廃止した勘定吟味役を元に戻すとともに、萩原重秀を激しく糾弾し、家宣に荻原重秀を罷免させた。


 貨幣政策の主導権を握った白石は、貨幣の金銀含有率を元に戻すよう主張し、「正徳金銀」を発行させた。しかし、元禄以降の当時は持続的に経済成長していたと考えられ、それに逆行する急速な通貨供給減少により、深刻なデフレーションを惹き起こした。むしろ、萩原の貨幣膨張政策が経済実勢に対応していたとも言われる。

 さらに正徳5(1715)年1月11日、「海舶互市新例」(正徳長崎新令)を定めて施行、長崎における中国・オランダとの貿易を制限し、金銀の海外流出を抑制した。新井白石は西洋の事情にも強い関心を持ち、オランダ商館長に西洋事情をたずねたり、布教のため密入国して捕縛されたイタリア人宣教師シドッチを、白石は直々に審問し「西洋紀聞」を著した。


 新井白石は優れた儒学者(朱子学)であるとともに、その知見は歴史学・地理学・言語学・文学など多岐に及んだ。そのような学識知見によって、将軍家宣の強い信頼を得て幕政に関わったが、政治実務の経験には乏しく、理論理想に基づいた政策を押しつけることも多く、旧来の実務を引き継ぐ幕閣や譜代大名らとの軋轢をもたらした。

 そんな中、正徳2(1712)年10月、新井白石や間部詮房の後ろ盾であった将軍家宣が急逝する。わずか5歳の徳川家継が後継の第7代将軍となり、引き続き白石や間部が政策を主導するが、その幼君家継も、正徳6(1716)年4月、就任後4年足らずで他界してしまう。その直後、御三家の一つ紀州藩主徳川吉宗が第8代将軍に就任した。


 吉宗の将軍就任とともに、反白石派の幕閣らの声が大きくなり、白石は失脚し公的な政治活動から退いた。白石の事績は、吉宗によってことごとく否定され、その政策はひっくり返されたとされる。しかし、実質的な経済政策などは、吉宗の時代にも継承された。隠棲後の白石は、元の学者に戻り著作作業に没頭した。中でも彼の回想録「折たく柴の記」は、富士山宝永の大噴火の江戸での様子を描くなど、当時の様子を示す貴重な資料となっている。


(この時期の出来事)
*1711.5.-/ 幕府は、箱根などの関所での検問強化を命じるとともに、大井川などの川越え規則を定め、各渡し場に高札を立てる。
*1711.11.1/ 第6代将軍家宣が、江戸城中で朝鮮通信使を引見する。
*1712.10.14/ 将軍家宣(51)没。
*1713.1.-/ 貝原益軒の「養生訓」が刊行される。
*1713.4.2/ 徳川家継が第7代将軍となる。家宣の急逝により、わずか5歳での就任だった。
*1713.4.-/ 2代目市川団十郎が「花館愛護桜」を山村座で初演する。(助六劇の初め)
*1714.1.12/ 大奥年寄絵島の醜聞事件が発生する。(絵島生島事件)
*1715.11.1/ 近松門左衛門作「国姓爺合戦」が、大坂竹本座で初演され、17ヵ月間の続演となる。

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