2020年6月12日金曜日

【17C_1 1646-1650年】

【17th Century Chronicle 1646-1650年】

◎武断政治から文治政治へ
*1648.2.28/ 江戸の市中整備と生活統制をねらい、江戸の町民の日常生活をこまかく規制した「市中法度」を布達する。
*1649.2.26/ 幕府は、これまでの農民統治の法令の集大成として、「慶安の御触書」を交付する。

 徳川家康、秀忠、家光と続く3代の将軍の治世は、関ヶ原の戦い以後の江戸幕府の基盤を固める時期であり、その徳川幕府の基本方針から「武断政治」と言われる。幕府に従わない大名や、武家諸法度などの法令に背いた大名は、容赦なく改易、減封などの処置を行った。そのため、大量の牢人が発生し、治安が悪化した。

 また、将軍の命として大名に課せられた参勤交代や手伝普請などは、大名にとって多額の出費となり、諸大名は家臣を減らすなどの対策を取るとともに、農民からの年貢の取り立てを厳しくした。そのため武士は困窮し、農民は生活苦に悩むことになる。


 「島原の乱」では、領主による厳しい年貢の取り立てが原因となった上に、島原や天草の領主は乱の責任を問われ、改易などの厳しい処分を受け、その結果多くの牢人が発生した。さらに、1640年から1643年頃に起きた「寛永の大飢饉」では、被害が全国に及び、多数の餓死者を出すなど農村の疲弊は極まった。

 これらは武断政治の限界を示すことになり、家光の晩年には「慶安の御触書」を出し農民の生活を統制し、百姓撫育(百姓成立)として農民の生活を安定させる方針を打ち出した。また、「市中法度」では江戸町民の生活を規制し、幕府自ら江戸の治安を高める姿勢を示した。


 慶安4(1651)年、家光が亡くなると、幼少の家綱への代替わりの混乱に乗じて、慶安の変(由比正雪の乱)や承応の変という不満牢人による反乱計画が露見した。これらの反乱は未遂に終わったが幕府を驚かせ、やがて家綱・綱吉の治世では、幕府は本格的に武断政治から「文治政治」へと基本方針を転換させてゆくこととなる。


(この時期の出来事)
*1646.9.26/ 庄内藩の御家騒動(長門一件)により、家老高力喜兵衛一族が処罰される。
*1647.6.24/ ポルトガル船が長崎に来航、貿易の再開を望むも、長崎奉行を通じ通商不許可・来航禁止を通告される。
*1647.11.18/ 唐津藩主寺沢堅高が乱心により自害する。島原の乱を誘発した失政で処罰されており、そのことが起因したとされる。
*1648.11.10/ 関所通行用の女手形の発行元が定められ、「出女」の統制と監視が強化される。
*1649.2.-/ 幕府は、検地の心得・方法などを定めた検地条目を出す。
*1649.11.28/ オランダ特使フリシウスが江戸に到着し、随従医カスパル・スハンベルヘンがオランダ医術を伝える。
*1650.3.-/ 伊勢大神宮のお札が降ったという噂が広まり、伊勢を目指して「お蔭参り」をする人々が急増する。

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