◎島原の乱
*1637.10.25/ 島原・天草で農民・キリシタンが蜂起し「島原の乱」が勃発する。
*1637.11.9/ 島原の乱に対し、幕府は板倉重昌を派遣するとともに、九州の諸大名に動員を命じる。
*1637.12.3/ 島原の乱の首領益田(天草)四郎時貞ら数万人が、原城跡に籠城する。
*1638.1.1/ 幕府軍が原城を総攻撃するも、指揮官板倉重昌が戦死して失敗。
*1638.1.4/ 老中松平信綱率いる幕府援軍が到着する。
*1638.2.28/ 原城が陥落し、首領益田四郎時貞(18)が討ち取られる。
*1638.4.12/ 島原藩主松倉勝家が、島原の乱の責任で所領没収のうえ斬罪、天草領主で唐津藩主寺沢堅孝も減封される。


島原や天草では、領主の改易や転封により取り残された家臣たちが、牢人や百姓として土着しており、彼らが反乱をリードした。彼ら首謀者は島原湾の湯島(談合島)において会談を行い、幾つもの奇跡を行ったと噂され、カリスマ的人気のあった16歳の少年天草四郎(益田四郎時貞)を頭目として、一揆を惹き起こした。



一揆軍は戦意が高く一致団結していたのに比べて、討伐軍は諸藩の寄せ集めで統率が取れていなかった。総大将の板倉重昌は小大名であり、九州の諸侯はこれに従わず勝手な動きをしたため、一揆軍の攻略に失敗したとされる。事態を重く見た幕府は、老中松平信綱の派遣を決定した。それを聞いて焦った板倉重昌が、無謀な総攻撃を仕掛けたという。
新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は、九州諸侯の増援をも得て、12万以上の軍勢で原城を完全包囲した。信綱は一揆側に兵糧が残り少ないことを察知すると、兵糧攻めに作戦を転じた。このとき、オランダ船が海から城内に砲撃するという支援があったが、一揆軍はポルトガルの支援を期待しており、新教国オランダと旧教国ポルトガルとの市場争奪戦という側面もあった。

反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島や天草諸島のカトリック信徒はほぼ根絶された。また、島原藩主の松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして、改易処分のうえで斬首となり、同様に天草領主の寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。
島原の乱は江戸期初期に発生したが、江戸時代を通じて最大の大乱となった。領主による圧政と弾圧が直接の動機となったが、百姓一揆とキリシタンの反乱という性格が重なり合い、江戸幕府を怯えさせるほどの内乱に発展した。
江戸時代を通じて百姓一揆は多く発生したが、これだけ組織だった一揆はなく、キリシタンも一般には武器を取って抵抗することはなく、殉教という形で神の裁きを期待するのが普通だった。したがって、百姓一揆とキリシタンの反抗だけで、この島原の乱を説明できない。
島原はかつてキリシタン大名有馬晴信の領地であったが、晴信は配流され自害した。また天草は、これもキリシタン大名であった小西行長の領地だったが、行長は関ヶ原で西軍に付いたため斬首されている。それらの地では、領主から取り残された家臣が牢人となり、百姓となって、庄屋など土地の中心的存在を占めていた。
彼ら牢人百姓は、かつての戦国の空気を嗅いだ武士でもあったわけで、彼らが一揆軍を組織したと考えられる。かれらもまたキリシタンでかつ百姓の身でもあったし、他の農民も束ねやすかったと思われる。さらに乱の初めから、かなりの武器を用意していたと考えられる。となれば、そのバックにポルトガルやイエズス会が関わっていたことも想像される。こう考えると、圧制と弾圧をこらえかねて立ち上がった百姓やキリシタンの一揆というだけではなく、遠くマカオやマニラまでも関わる国際的な背景のもとでの反乱という構図が浮かんでくる。幕府が体制の危機とまで恐れた理由が分かる気がする。
(この時期の出来事)
*1636.5.19/ 幕府は日本人の海外渡航を厳禁、ポルトガル人を海外追放。(第4次鎖国令)
*1636.5.24/ 仙台藩主伊達政宗(70)没。
*1636.-.-/ 長崎の出島が完成。
*1638.9.20/ 幕府はキリシタン禁教令を諸大名・旗本に重ねて布告し、密告を奨励する。
*1639.6.-/ 幕府は宗門改役を設置し、宗門改帳を作成する。
*1639.7.4/ 幕府はポルトガル船の来航とキリスト教の厳禁を通達する。(第5次鎖国令・鎖国の完成)
*1639.10.-/ オランダ人とその日本人妻子を国外追放する。
*1640.6.16/ 幕府は、貿易再開の要請のため長崎に入港したポルトガル船を焼き、使節や乗組員61名を処刑する。
*1640.7.26/ 幕府は池田騒動と生駒騒動に採決を下し、播磨山崎藩主池田輝澄と讃岐高松藩主生駒高俊を厳重処分。
0 件のコメント:
コメントを投稿