◎第3代将軍徳川家光
*1623.7.27/ 徳川家光が京都で、朝廷より征夷大将軍を宣下される。
徳川家光は、2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で正室のお江(江与)で、長男は夭折しており、祖父家康と同じ竹千代の幼名を与えられ、早くから世子として育てられた。しかし、父 秀忠やお江が弟の国松(徳川忠長)を溺愛したため、家光廃嫡を危惧した乳母のお福(春日局)が家康に懇願し、隠居の家康が長子相続の裁定をして家光が世継ぎと定められた。
元和9(1623)年7月27日、秀忠とともに上洛した家光は、参内して将軍宣下を受け、第3代征夷大将軍となる。秀忠は隠居して江戸城西の丸に移るが、家康にならって、大御所として引き続き実権を握った。寛永9(1632)年1月に秀忠が死去すると、二元政治は解消され、将軍から「公方」として親政を始める。
まずは、徳川直臣である旗本を中心に直轄軍を再編し、幕府中枢には大老・老中・若年寄・奉行・大目付と言う役職を定め、将軍をその最高権力者「公方」と位置づけたヒエラルヒーを確立した。そしてそれらの役職には親近な重臣を起用して、大老の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝、老中としては松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、大目付として中根正盛などを配置した。
また、熊本藩主加藤忠広を改易するなど、譜代や外様を問わず、有力大名の「改易と転封」を行い、重要な拠点には親藩・譜代大名を配置し、徳川家の支配を強化した幕藩体制を整えた。寛永12(1635)年の武家諸法度の改訂で、大名に「参勤交代」を義務づけ、さらには大名の妻子の江戸住みを定めるなど、大名統制を徹底した。
海外相手には、幕府による利益独占とキリシタン排除の目的で、長崎での貿易に限定して、取引相手もオランダ人と中国人に限定していく。寛永10(1633)年から寛永18(1641)年にかけて、順次統制を強めてゆき、日本人の東南アジア方面への往来を禁止し、朱印船貿易を終焉させると、寛永14(1637)年の島原の乱の後にはポルトガルとも断交、寛永18(1641)年にオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた。
これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。家光の代で、徳川政権の基本体制がほぼ出来上がると、つづく家綱・綱吉の治世以降、徐々に文治政治への道が開けた。
家光は1623年から1651年にかけて30年近く将軍職に在任したが、その間には様々な問題も起こった。なかでも最も大きな事件は、寛永14(1637)年10月に勃発した「島原の乱」であった。これは苛酷な年貢による農民一揆と、厳しいキリシタン弾圧に対する宗教戦争と、二つが重なり合った大乱であり、幕府はその鎮圧に半年近くかかった。これに懲りた幕府は、鎖国を徹底することになる。
さらに、寛永19(1642)年からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。農民統制の必要を迫られた家光は、「田畑永代売買禁止令」を発布して農民の浮浪民化を防止するとともに、「慶安の御触書」と後年俗称される農民統制のための諸令を発して、農村の安定を図った。
家光には、正室鷹司孝子との間に子がいなかった。若いころの家光は男色を好み、女性に興を示さなかったので、乳母のお福(春日局)は世継ぎを心配し、家光の側室探しに尽力した。やがて、お福は「将軍様御局」として大奥の公務を取り仕切るようになり、老中をも上回る実質的な権力を握るようになった。
大奥は春日局によって組織的な整備がなされるとともに、春日局が奥入りさせた側室、お万・お楽・お夏・お玉などを家光が寵愛するようになり、のちの4代将軍家綱、5代将軍綱吉が生まれた。以後、大奥は将軍の世継ぎをもうけるための重要な機能を果すようになる。ちなみに、将軍の正妻の子として生まれて、そのまま将軍に就任したのは、徳川15代の中で家光だけであった。
第3代将軍徳川家光は、祖父家康を深く敬い、日光東照宮を大規模改修させるなどした。優れた政治手腕を発揮し、幕府権力を基礎固めした上に、諸大名に対する幕府の統制を確立させた家光は、慶安4(1651)年4月、江戸城内で死去する。享年48。
(この時期の出来事)
*1621.9.1/ シャム(タイ)国使が将軍秀忠に謁見、通商を許可される。
*1621.-.-/ 関東郡代伊奈忠治が、利根川の流路を渡良瀬川と結ぶ大改修工事を始め、利根川を東流させる。
*1621.-.-/ マニラ郊外ディラオに、3000人の日本人町が復興される。
*1622.8.5/ 幕府は長崎で、キリシタンを大量に虐殺処刑する。(元和大殉教)
*1622.10.1/ 幕府は、父正信以来の重臣で宇都宮藩主の本多正純が、突然改易される。将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられたためという。
*1623.11.13/ イギリスが平戸の商館を閉鎖し、対日貿易から撤退する。
*1624.3.24/ 幕府がスペインの貿易要請を拒否、以後日本・スペイン領ルソン間の国交が断絶する。
*1624.11.13/ 薩摩藩主島津家久が率先し、諸大名の妻子を江戸住いにすることが始まる。
*1625.11.-/ 幕府の政務に携わる天台宗の僧南光坊天海が、忍ケ丘に東叡山寛永寺を建立し、徳川家の廟所とする。
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