2020年5月22日金曜日

【15C 1441-1460年】

【15th Century Chronicle 1441-1460年】

◎将軍足利義教暗殺(嘉吉の乱)
*1441.4.16/ 結城城が陥落し、結城氏朝らが討ち死にする。(結城合戦終息)
*1441.6.24/ 赤松満祐(69)邸での結城合戦祝勝の宴で、将軍義教(48)が満祐の子らに暗殺される。満祐父子は領国播磨に逃亡する。(嘉吉の乱)
*1441.9.10/ 赤松満祐が、山名持豊(宗全)らの追討軍に攻められ自刃する。
*1443.9.23/ 南朝の遺臣らが内裏に乱入、神璽を奪い根本中堂に立て篭もるも鎮圧される。神璽は吉野山中に持ち去られる。(禁闕の変)

f:id:naniuji:20190728183115j:plain 実権を握っていた足利義持が後継指名せずに亡くなると、義持の4人の弟からくじ引きで選ぶことになり、出家していた足利義教(義円)が、天台座主から還俗して8代将軍に就任した。将軍に就任した義教は、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活を目指し、父義満の時代を手本とした。

 義教は有力守護に依存していた軍事政策を改め、将軍直轄の軍事力を強化しようとした。まず、将軍家に反抗し続ける鎌倉公方足利持氏の討伐を試みるが、関東管領上杉氏の仲介で一旦は断念する。


f:id:naniuji:20191106093744j:plain それまで持氏を諌めていた関東管領上杉憲実が、逆に疎まれて領国の上野に逃亡し、持氏が討伐を始めた。義教はこれを好機と見て憲実と結び、永享11(1439)年、持氏一族を滅ぼした。これで、鎌倉公方の問題は一旦終息する(永享の乱)。

f:id:naniuji:20190728183248j:plain  さらに義教は、斯波氏・畠山氏・山名氏・京極氏・富樫氏・今川氏など有力守護大名の家督継承などに積極的に干渉し、将軍の支配力を強めるとともに、反発する守護大名は誅殺するなど、強権的に支配していった。


 これらの過酷な処置は、義教の守護抑制政策の一環ではあったか、義教は個人的にも苛烈な側面を持ち、些細なことで従者たちを処罰するなど、「万人恐怖」と評せられるほど恐れられた。

f:id:naniuji:20190728183436j:plain 赤松満祐は、侍所別当として正長の土一揆の鎮圧に当たっていたが、本拠の播磨で播磨の土一揆が起こり、急遽播磨に下向して鎮圧した。義教とは当初良好な関係であったが、やがて義教は有力大名を誅殺しだすと、満祐も将軍に討たれるという危機を感じ出した。


f:id:naniuji:20190728183324j:plain 嘉吉1(1441)年6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として西洞院二条にある邸へ義教を招いた。そこで猿楽を観賞中に、突如甲冑を着た武者たちが乱入し、義教(48)は首をはねられた。強権的であった将軍が殺害され、指揮系統が混乱したため、赤松満祐・教康父子は、討手を差し向けられることもなく播磨に帰国する(嘉吉の乱)。

 やっと二ヵ月半後、山名持豊(宗全)らに追討され、満祐父子は死亡し赤松氏は滅亡する。将軍義教の後は子の義勝が継ぐが、義勝も程なく病没し、その弟の義政が継ぐことになった。


◎第8代将軍足利義政と幕府の混迷
*1449.4.29/ 足利義政が、第8代将軍に就く。
*1449.9.9/ 足利持氏の遺児足利成氏(12)が、鎌倉公方に就任し、上杉憲実は鎌倉を出る。
*1450.4.21/ 上杉方勢力と足利成氏(13)勢とが抗争を繰り返し、上杉憲実の子憲忠が横死するなど、再び鎌倉は騒乱に戻る。
*1452.11.16/ 細川勝元が管領に復帰する。
*1454.4.3/ 畠山家で義就と義政の家督争いが発生し、細川勝元や山名持豊なども介入し、内紛は複雑化する。
*1460.9.20/ 畠山義就が、将軍義政と対立し河内に走る。畠山家の内紛は周囲を巻き込み、やがて応仁の乱の原因となる。

f:id:naniuji:20190801224602j:plain 嘉吉1(1441)年、父 足利義教が「嘉吉の乱」で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3(1443)年に義勝も早世し、足利義政が管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出、元服した文安6(1449)年4月に正式に第8代将軍として就任した。

 就任当初は若年将軍のため、乳母の今参局、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬持家や、母日野重子と正室日野富子の実家の日野家、有力な守護大名などが政治に介入して、政治を主導できなかった。


f:id:naniuji:20190801224646j:plain 宝徳2(1450)年には、鎌倉公方足利成氏と、関東管領上杉憲忠の対立が生じ、享徳4(1455)年、足利成氏が上杉憲忠を謀殺するに至った(享徳の乱)。足利義政は成氏追討令を発して積極的な介入を行ったが、鎌倉公方と関東管領の対立は、関東の守護同士の争いも加わり、京都の室町将軍の手を下せない混乱状態になる。

 当時の守護大名は家督相続に関する内紛が多く、義政はこれらの相続争いにも積極的に介入した。そして享徳3(1454)年、管領畠山氏のお家騒動が起こり、山名宗全と細川勝元の庇護を受けた畠山政久が、伯父の持国とその子畠山義就を京都から追い落とした。


f:id:naniuji:20190801224710j:plain 将軍義政は義就を支持、細川勝元や山名宗全がひるむ間に、義就は上洛、義政と対面して家督相続を認められ、政久は没落する。義政の義就支持は、細川氏・山名氏に対抗するためだったとされる。しかし畠山義就は将軍義政と対立し始め、細川勝元や山名宗全の意向も働き、長禄4(1460)年に義就は家督を奪われ、河内から吉野へと逃れる。

 足利義政は守護大名らの紛争に積極的に介入し、将軍職の権威を高めようとしたが、側近や細川勝元や山名宗全の有力大名が、それぞれの思惑で動くため、思うに任せない状態で、次第に政務に意欲を失っていった。


f:id:naniuji:20190801224747j:plain 義政には29歳になっても正室や側室との間に後継男子がなく、それを理由に将軍職を実弟に譲って隠居することとし、実弟の義尋を還俗させて、細川勝元を後見に「足利義視」として次期将軍に決定した。

 ところが、寛正6(1465)年に正妻日野富子に男児(足利義尚)が誕生する。富子は義尚の将軍後継を望み、山名宗全に協力を頼んだ。この足利将軍家の家督継承問題に際し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、優柔不断な態度のまま、政務から目を背けて、豪勢な邸宅・庭園の造営に打ち込み、猿楽や酒宴に溺れていった。

 この将軍家の家督継承問題は、義視の後見人である勝元と、義尚を推す宗全の対立に発展し、管領畠山氏の家督争いとも重なり合い、全国の守護大名を2分する事態となり、応仁の乱へとなだれ込んでゆく。


(この時期の出来事)
*1457.5.15/ 蝦夷地でアイヌのコシャマインが蜂起、武田信弘によって鎮圧される。
*1457.-.-/ 蓮如が本願寺第8代法主となる。

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