◎将軍足利義教暗殺(嘉吉の乱)
*1441.4.16/ 結城城が陥落し、結城氏朝らが討ち死にする。(結城合戦終息)
*1441.6.24/ 赤松満祐(69)邸での結城合戦祝勝の宴で、将軍義教(48)が満祐の子らに暗殺される。満祐父子は領国播磨に逃亡する。(嘉吉の乱)
*1441.9.10/ 赤松満祐が、山名持豊(宗全)らの追討軍に攻められ自刃する。
*1443.9.23/ 南朝の遺臣らが内裏に乱入、神璽を奪い根本中堂に立て篭もるも鎮圧される。神璽は吉野山中に持ち去られる。(禁闕の変)

義教は有力守護に依存していた軍事政策を改め、将軍直轄の軍事力を強化しようとした。まず、将軍家に反抗し続ける鎌倉公方足利持氏の討伐を試みるが、関東管領上杉氏の仲介で一旦は断念する。


これらの過酷な処置は、義教の守護抑制政策の一環ではあったか、義教は個人的にも苛烈な側面を持ち、些細なことで従者たちを処罰するなど、「万人恐怖」と評せられるほど恐れられた。


やっと二ヵ月半後、山名持豊(宗全)らに追討され、満祐父子は死亡し赤松氏は滅亡する。将軍義教の後は子の義勝が継ぐが、義勝も程なく病没し、その弟の義政が継ぐことになった。
◎第8代将軍足利義政と幕府の混迷
*1449.4.29/ 足利義政が、第8代将軍に就く。
*1449.9.9/ 足利持氏の遺児足利成氏(12)が、鎌倉公方に就任し、上杉憲実は鎌倉を出る。
*1450.4.21/ 上杉方勢力と足利成氏(13)勢とが抗争を繰り返し、上杉憲実の子憲忠が横死するなど、再び鎌倉は騒乱に戻る。
*1452.11.16/ 細川勝元が管領に復帰する。
*1454.4.3/ 畠山家で義就と義政の家督争いが発生し、細川勝元や山名持豊なども介入し、内紛は複雑化する。
*1460.9.20/ 畠山義就が、将軍義政と対立し河内に走る。畠山家の内紛は周囲を巻き込み、やがて応仁の乱の原因となる。
嘉吉1(1441)年、父 足利義教が「嘉吉の乱」で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3(1443)年に義勝も早世し、足利義政が管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出、元服した文安6(1449)年4月に正式に第8代将軍として就任した。
*1452.11.16/ 細川勝元が管領に復帰する。
*1454.4.3/ 畠山家で義就と義政の家督争いが発生し、細川勝元や山名持豊なども介入し、内紛は複雑化する。
*1460.9.20/ 畠山義就が、将軍義政と対立し河内に走る。畠山家の内紛は周囲を巻き込み、やがて応仁の乱の原因となる。

就任当初は若年将軍のため、乳母の今参局、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬持家や、母日野重子と正室日野富子の実家の日野家、有力な守護大名などが政治に介入して、政治を主導できなかった。

当時の守護大名は家督相続に関する内紛が多く、義政はこれらの相続争いにも積極的に介入した。そして享徳3(1454)年、管領畠山氏のお家騒動が起こり、山名宗全と細川勝元の庇護を受けた畠山政久が、伯父の持国とその子畠山義就を京都から追い落とした。

足利義政は守護大名らの紛争に積極的に介入し、将軍職の権威を高めようとしたが、側近や細川勝元や山名宗全の有力大名が、それぞれの思惑で動くため、思うに任せない状態で、次第に政務に意欲を失っていった。

ところが、寛正6(1465)年に正妻日野富子に男児(足利義尚)が誕生する。富子は義尚の将軍後継を望み、山名宗全に協力を頼んだ。この足利将軍家の家督継承問題に際し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、優柔不断な態度のまま、政務から目を背けて、豪勢な邸宅・庭園の造営に打ち込み、猿楽や酒宴に溺れていった。
この将軍家の家督継承問題は、義視の後見人である勝元と、義尚を推す宗全の対立に発展し、管領畠山氏の家督争いとも重なり合い、全国の守護大名を2分する事態となり、応仁の乱へとなだれ込んでゆく。
(この時期の出来事)
*1457.5.15/ 蝦夷地でアイヌのコシャマインが蜂起、武田信弘によって鎮圧される。
*1457.-.-/ 蓮如が本願寺第8代法主となる。
0 件のコメント:
コメントを投稿