◎平清盛と平氏政権
*1161.1.-/ 参議平清盛が検非違使別当を兼任、武士としては初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となる。
*1162.8.20/ 平清盛が従二位に、異例の昇進をする。
*1164.9.-/ 平清盛(47)を筆頭として平氏一門が、法華経を書写し厳島神社に奉納する。(平氏納経)
*1167.2.11/ 平清盛が武士で初めての太政大臣となる。
*1168.3.20/ 高倉天皇(8)が即位するとともに、その母平滋子(27)が皇太后となる。滋子は清盛の妻時子の妹であり、平氏は天皇の外戚となり、全盛をきわめる。
*1171.12.14/ 平清盛の娘徳子(17/建礼門院)が、後白河法皇の養女として、高倉天皇(11)のもとに入内、女御となり、翌年2月には中宮となる。
*1172.9.16/ 宋国明州の使者が後白河法皇と平清盛に贈物を献上する。清盛は兵庫港を修復して日宋貿易を推進する。
*1177.6.1/ 京都東山の鹿ヶ谷で、後白河法皇の近臣藤原師光(西光)・大納言藤原成親・法勝寺執行俊寛らによる、平氏打倒の密謀が発覚する。陰謀の背後には後白河法皇もからんでいた。(鹿ヶ谷の陰謀)
*1179.7.29/ 平重盛(43)没。
*1179.11.20/ 平清盛が軍勢を率いてクーデターを敢行し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、院政を停止する。
*1180.4.22/ 平清盛の娘 中宮徳子の子、安徳天皇が3歳で即位する。
*1180.6.2/ 平清盛の意向で、兵庫の福原へ都を移す。
「平清盛」は永久6(1118)年1月18日、伊勢平氏の頭領「平忠盛」の長男として生まれる。白河法皇の晩年の寵姫「祇園女御」の庇護の下で育ったところから、「白河法皇」の子という説もあるが、事実性は乏しい。清盛は伊勢平氏で院臣の武士の身であるにもかかわらず、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任されるなど異例の出世をするが、これも白河法王落胤説の根拠となっている。
若い時期、鳥羽法皇の寵臣藤原家成の邸に出入りしていたが、保延(1137)3年、父忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。久安3(1147)年6月、祇園社において清盛郎等が祇園社神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴、窮地に陥った清盛だが、鳥羽法皇のはからいで贖銅三十斤という軽い罰金刑にとどまった。
問題を起こした妾腹の清盛に代わり、正室腹の異母弟 平家盛が忠盛嫡子として有力となったが急死する。これにより清盛は嫡流としての地位を固め、安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手に入れると、父と共に西国へと勢力を拡大した。この縁により、宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3(1153)年の忠盛の死をうけて平氏一門の頭領となる。
保元元(1156)年の「保元の乱」では、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし、播磨守大宰大弐となる。平治元(1159)年「平治の乱」が起こると、信西一門を追放する二条親政派のクーデターを静観し、二条天皇を擁して大義をつかむと、藤原信頼などの反信西派を一掃するとともに、ライバルの源義朝らを打ち破り、清盛は武士の第一人者となる。
清盛は朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築くとともに、二条天皇の乳父として後見役となり、御所の検非違使別当・中納言となる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方のバランスをとった。
応保元(1161)年、後白河上皇と平滋子(建春門院)の間に憲仁親王(高倉天皇)が生まれると、後白河の近臣が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、画策した近臣を解官して後白河院政を停止する。
清盛は二条天皇支持の姿勢を明確にし、二条天皇親政を補佐し、天皇からも厚い信任を得た。長寛3(1165)年7月、二条天皇が崩御すると、天皇の皇子六条天皇が2歳で践祚するが、祖父 後白河上皇の意向により在位2年余りで、叔父の高倉天皇(8/憲仁親王)に譲位させられ、後白河の院政が復活する。
やがて高倉天皇を擁する清盛と、院政を継続しようとする後白河との間に対立関係が生じてきた。安元3(1177)年6月1日、京都東山鹿ヶ谷で後白河法皇の近臣藤原師光(西光)・大納言藤原成親・法勝寺執行俊寛らによる、平氏打倒の密謀が発覚する(鹿ヶ谷の陰謀)。
この謀議の背後には後白河法皇の意向が働いていたとされるが、清盛は近臣らを処断するが後白河は不問にした。翌 治承2(1178)年、中宮徳子が高倉の皇子 言仁親王(安徳天皇)を出産すると、すぐに立太子とし、着々と外戚関係を築いていく。
治承3(1179)年、清盛の信頼を失っていた長男重盛が死去すると、後白河は重盛の知行国を没収した。これらの後白河の措置に憤慨した清盛は、この年11月14日、福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した(治承三年の政変)。
清盛は反平氏的とされた公卿・院近臣を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する粛清人事を行った。後白河法皇は許しを請うが、清盛はこれを許さず鳥羽殿に幽閉する。ここに後白河院政は完全に停止された。
かくして盤石の平氏政権を築き上げた平清盛であったが、その政権基盤は脆弱なものだった。清盛は、寺社勢力の強い京都を避けて、兵庫福原に遷都を企図した。しかしこれは、高倉天皇を筆頭に朝廷の公家層の反発を招いた。
さらに清盛が福原に引き上げたあと、院政停止後の政権運営は、高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人に任されるが、いずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛頼りになるしかなかった。
そんななかで、後白河法皇の第3皇子 以仁王が平氏追討の令旨を出し、源頼政などを擁して挙兵した。これに呼応して、全国各地に飛び火して、伊豆の源頼朝、信濃国の木曾義仲などが次々と挙兵する。
かくして各地で源氏による平氏追討の狼煙が湧きおこるなか、治承5(1181)年2月清盛は27日に熱病に倒れ、死後はすべて宗盛に任せるとして、死亡した。享年64。
(追補2019.05.10)
平清盛は、思われているほど横暴な人物ではなかったと思われる。平治の乱でも、状況を見きわめながら、最後に落としどころを押さえて動いている。清盛が自ら率先して動いたのは、「治承三年の政変(1179)」の時で、後白河法皇一派を追放するクーデターからだった。
これ以降、高倉上皇、安徳天皇を奉じて前面に出て政権運営を始めるが、重盛も亡くなっており清盛が先頭に立つより仕方が無くなった。
清盛政権は宮中クーデターで中央政治を奪取したに過ぎず、それまでの荘園制に基づいた摂関政治を踏襲するしかなく、平氏の知行国が全国の半分近くを占めたといっても、それは武士団本来の主従関係に基づく領地支配ではなかった。
平家が貴族化したと言われるが、これは清盛が朝廷の高い官位を得て支配したということだけではなく(最高位太政大臣は3ヵ月で辞退している)、地方の支配地が従来の摂関政治的荘園制を引き継いだものであったからだ。
清盛は、結局、源頼朝が確立するような、将軍と御家人という主従関係を基幹とする封建的支配体制を打ち出せなかった。公家勢力や寺社勢力の強い京都を離れて、福原(現神戸市)遷都を企図するが、それはかつて築いた瀬戸内支配権に基づいて、日宋貿易という商業ベースで政権運営費用を得ようとしたものであった。
これは、のちに坂東に土着した源氏一族の武士団を基に、源頼朝が築く鎌倉政権とは、まったく性格を異にしていた。そして清盛は、それが端緒に付いてすぐに、熱病で死去した。清盛がより長く生きていたらと想像するのは無意味だが、少なくとも「福原幕府」を開くということにはならなかっただろう。
◎平氏追討
*1180.4.9/ 後白河法皇の皇子以仁王が、平氏追討の令旨を発する。
*1180.5.26/ 以仁王・源頼政が挙兵し、平重衡と宇治川で合戦するも、敗死する。
*1180.8.17/ 源頼朝(34)が配流先の伊豆で挙兵する。
*1180.9.7/ 源義仲(木曽義仲)が信濃で挙兵する。
*1180.10.20/ 源頼朝軍が、平維盛軍と富士川で合戦、勝利を収める。(富士川の戦い)
*1180.10.21/ 源頼朝が駿河の黄瀬川で、弟の義経と初めて対面する。
平清盛が「治承三年の政変(1179)」で政権を完全に奪取、後白河法皇を幽閉し院政を停止して以来、平氏政権への不満は朝廷内部でくすぶり続けていたが、治承4(1180)年3月、園城寺(三井寺)が延暦寺・興福寺に呼びかけて、後白河・高倉両院を奪取しようと計画した。しかし、この計画を知らされた後白河法皇が動揺し、平宗盛に伝えたため頓挫した。ただしこれを契機に、後白河法皇は幽閉生活から解放されることになった。
*1180.9.7/ 源義仲(木曽義仲)が信濃で挙兵する。
*1180.10.20/ 源頼朝軍が、平維盛軍と富士川で合戦、勝利を収める。(富士川の戦い)
*1180.10.21/ 源頼朝が駿河の黄瀬川で、弟の義経と初めて対面する。
平清盛が「治承三年の政変(1179)」で政権を完全に奪取、後白河法皇を幽閉し院政を停止して以来、平氏政権への不満は朝廷内部でくすぶり続けていたが、治承4(1180)年3月、園城寺(三井寺)が延暦寺・興福寺に呼びかけて、後白河・高倉両院を奪取しようと計画した。しかし、この計画を知らされた後白河法皇が動揺し、平宗盛に伝えたため頓挫した。ただしこれを契機に、後白河法皇は幽閉生活から解放されることになった。
後白河法皇の第三皇子 以仁王は、出家せずに皇位へ望みをつないでいたが、安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、経済基盤である荘園の一部も没収された。一方、源頼光の系譜で摂津源氏の源頼政は、保元・平治の乱を生き抜き、地味ながら軍事貴族の一員として過ごしていた。
以仁王と頼政がどの時点で結びついたかは不明だが、平氏一門の専横と、皇統が高倉・安徳天皇という平氏外戚への流れができたことで、ともに反平氏を唱えて挙兵する意思を固めたとされる。
治承4(1180)年4月9日、源頼政と謀った以仁王は、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。令旨が東国に伝えられる途中の5月初めに計画は露見し、以仁王は寺院勢力を頼って園城寺(三井寺)へと逃れた。平氏が軍勢を整えて園城寺攻撃態勢に入ったとき、やっと頼政は自邸を焼き、園城寺に入り以仁王と合流した。
園城寺も危険になると、頼政と以仁王は園城寺を脱出し南都興福寺へと向かう。途上でやむなく宇治橋の橋板を外して、宇治平等院で休息を取ることになった。追手の平氏軍と宇治川を挟んで両軍は対峙し、「平家物語」ではこの戦闘を「橋合戦」と呼んでいる。
平氏の軍勢が渡河すると、頼政は平等院まで退き防戦するも、頼政方は追い詰められ頼政が自刃、逃れた以仁王も平氏軍勢に追いつかれ、討ち取られる。なお、丹波路の亀岡市を通る旧国道9号線沿いに「頼政塚」がある。頼政の果てた宇治と亀岡は、京の町から反対方向でまったく離れた地にあるが、頼政の家臣がその首を領国に持ち帰ろうとして、この地に埋めたと伝承されている。
以仁王と頼政の挙兵は失敗に終わるが、その以仁王の平氏追討令旨を奉じて、源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、そのまま「治承・寿永の乱」と呼ばれる「源平の合戦」が展開されることになる。
(この時期の出来事)
*1161.9.15/ 左馬権守平教盛・右少弁平時忠が、後白河上皇の皇子憲仁親王の立皇太子の陰謀に連座して解任される。
*1162.6.23/ 二条天皇呪詛の罪により、上皇近臣の源資賢が信濃、平時忠が出雲に配流される。
*1164.12.17/ 後白河上皇が、平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)を落慶供養する。
*1165.7.28/ 二条天皇(23)が崩御、六条天皇(2)が即位する。
*1168.3.20/ 高倉天皇が(8)即位する。
*1174.7.15/ 3月に船岡野(船岡山)で千僧供養を行おうとした上人が、朝廷に禁じられていたが、今度は多くの見物客を集めて焼身自殺をする。
*1175.春/ 法然が専修念仏を唱え、浄土宗を始める。
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