2020年5月6日水曜日

【12C 1121-1140年】

【12th Century Chronicle 1121-1140年】

◎院政
*1123.1.28/ 「鳥羽天皇(21)」が譲位して上皇となり、5歳の皇子が「崇徳天皇」として即位、藤原忠通が摂政として政務を代行する。
*1124.11.24/ 鳥羽上皇の中宮璋子の院号を「待賢門院」とする。
*1126.11.7/ 崇徳天皇の生母待賢門院を呪詛したとして、阿闍梨 乗実・妙心が伊豆に流される。背景には「白河法皇」と「鳥羽上皇」の間の確執(崇徳天皇が白河法皇の実の子だとの噂など)があるとされる。
*1129.3.-/ 白河法皇が、備前守「平忠盛」に瀬戸内海を荒らす海賊を討伐させる。
*1129.7.7/ 白河法皇(77)が急死し、鳥羽上皇の院政が始まる。
*1132.3.13/ 鳥羽上皇が得長寿院(白河千体観音堂)の落慶供養を行い、その造営の功績により備前守平忠盛が昇殿を許される。

f:id:naniuji:20190429144911j:plain 天皇が皇位を後継者に譲って太上天皇(上皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う政治のことを「院政」と呼び、その用語は江戸時代の頼山陽が「日本外史」の中で用いたことに由来する。

 天皇が皇位を譲ると「上皇」となり、上皇が出家すると「法皇」と呼ばれる。院政を布く上皇・法王は「治天の君」とも呼ばれた。応徳3(1086)年、白河天皇がわずか8歳の「堀河天皇」に譲位して「白河上皇」となった時から、平家が滅亡する文治1(1185)年頃までの平安時代末期を「院政時代」とも呼ぶ。


  藤原北家が「外戚」として政治の実権を握り、天皇の職務を代理した「摂関政治」の最盛期では、藤原道長・頼通の治世が続くが、その頼通の末期に藤原氏と血縁の薄い後三条天皇が即位し、摂関政治が揺らぎ始める。

 「後三条天皇」は強力な親政を行い、4年後の延久4(1072)年に第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没する。20歳で即位した「白河天皇」は、頼通の子で関白の「藤原師実」と協調しながら政治を進めるが、応徳3(1086)年、実子である善仁親王(8)(堀河天皇)に譲位する。


f:id:naniuji:20190429144946j:plain 「白河上皇」は、実子である「堀河天皇」への譲位が目的であり、必ずしも強力な院政をしく目的ではなかった。しかしその後、摂関家の藤原師実を継いだ師通が急逝し、まだ若く政治的に未熟な藤原忠実が継承(1099)したことや、さらに嘉承2(1107)年7月に堀河天皇が崩御し、その皇子で白河法皇の孫である「鳥羽天皇」が5歳で即位するなど、状況が一変する事態となった。

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 そこで「白河法皇」が孫の幼帝鳥羽天皇の後見をすることになり、結果的に権力が集中していった。政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。叙位・除目に大きく介入し人事権を掌握するとともに、院の警護役の北面武士に平氏・源氏などの新興武士団を重用して、実質的な武力を背景とした権力も握った。


  幼い鳥羽天皇に代わって、白河法皇が実際の政務を仕切り、また白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)を中宮とした。保安(1123)4年には第一皇子 崇徳天皇に譲位させる。白河法皇は、大治4(1129)年7月、77歳で崩御する。

f:id:naniuji:20190429145105j:plain やっと院政を敷くようになった「鳥羽上皇」は、白河法皇の側近を遠ざけ、院の要職を自己の側近で固めるとともに、白河法皇の勅勘を受けて蟄居していた前関白「藤原忠実」を復権させ、南都北嶺の悪僧鎮圧に功のあった伊勢平氏の「平忠盛」を取り立てて、内昇殿をゆるすなどの人事をふるった。

 さらに、白河法皇の後ろ盾を失った「璋子(待賢門院)」にかわり、長承2(1133)年頃より「得子(美福門院)」を寵愛した。永治元(1141)年には、璋子の産んだ崇徳天皇(23)に譲位させ、得子所生の「近衛天皇」を3歳で即位させた。


f:id:naniuji:20190429145137j:plain 受戒し法皇となった「鳥羽法皇」は、久寿2(1155)年に近衛天皇が早世すると、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させ、崇徳上皇が院政を敷く可能性を摘んだ。

 崇徳上皇は、白河法王に実子ではないかとも噂され、それが白河法王と鳥羽法皇の間の確執の因であるとともに、白河法王の後ろ盾が無くなったあとの崇徳上皇は、鳥羽法皇から疎まれた。


 このことが、鳥羽法皇崩御の直後に、崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれて争う「保元の乱」の原因となった。以後、保元・平治の乱を通じて「後白河上皇」が院政を敷くが、事実上は、平氏や源氏の武士の武力の世の中になっていき、これら勢力を取り込むことに腐心することになる。


(この時期の出来事)
*1121.3.5/ 白河上皇により内覧を停止されていた藤原忠実が、鳥羽上皇の差配で復帰し、さらに嫡男忠通が家督を引き継ぎ、氏長者して関白となる。
*1123.7.4/ 延暦寺僧徒が、平忠盛の要求に屈した座主寛慶を追放する。
*1123.7.18/ 日吉社の神輿を奉じて入京しようとする延暦寺僧徒を、平忠盛・源為義が撃退する。
 *1124.8.20/ 藤原清衡が、奥州平泉に中尊寺金色堂を建立する。
*1126.5.19/ 寛徳以後の新設荘園を停止する。(大治の荘園整理令)
*1131.-.-/ この頃、藤原道長を中心とする藤原氏の栄華を描いた歴史物語「大鏡」が成立する。
*1135.8.21/ 平忠盛の海賊追討の功により、その子「清盛(18)」が従四位下の序せられる。
*1140.9.15/ 「鳥獣人物戯画」の筆者とされ、「今昔物語」の編者にも擬せられる「鳥羽僧正」こと前大僧正・延暦寺座主「覚猷(88)」が死去する。
 *1040.10.15/ 鳥羽上皇の北面の武士、佐藤義清(23)が出家し、歌人西行法師となる。

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