◎後三年の役
*1083.9.-/ 陸奥守兼鎮守府将軍源義家が赴任する。清原家衡と真衡の内紛が起こると、源義家は介入し家衡を攻めるが、その最中に真衡が急死する。(後三年の役の始まり)
*1085.-.-/ 清原清衡が、清原家衡・武衡と争い、源義家は清衡を助ける。
*1087.11.14/ 源義家・清原清衡が、清原家衡らのたてこもる金沢柵を攻略する。(後三年の役の終結)
11世紀の東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という豪族が勢力を誇っていたが、陸奥国の安倍氏は康平5(1062)年の前九年の役で滅亡する。この戦役で、陸奥守源頼義の要請で参戦した清原氏の清原武則は、戦功により鎮守府将軍に任命され、奥州に大勢力を展開することになった。
しかしやがてその清原氏に、複雑な内紛が起こる。清原氏の惣領は、武則から子の「武貞」さらに孫の「真衡」と引き継がれるが、武貞には養子の「清衡」と、真衡の異母弟になる「家衡」の二人の子が居た。
「真衡」には嫡子がなかったが、養子として成衡を迎えて、さらに成衡の源頼義の血を引く妻を娶らせて、清原氏の本流を確立させようとしていた。永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」を前にして、真衡は一族の長老吉彦秀武や清衡、家衡と対立し、その鎮圧戦の最中に急死する。
源義家の調停により、真衡の遺領は清衡・家衡2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服とした家衡が清衡を攻撃する。「清衡」側には源義家が介入し与力する一方、「家衡」側には叔父の武衡が加勢した。
応徳3(1086)年、清衡と義家は沼柵に籠もった家衡を攻撃するが、逆に家衡軍に打ち負かされる。駆けつけた叔父清原武衡とともに、家衡は難攻不落といわれる金沢柵に移るが、寛治元(1087)年、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を兵糧攻めにし、ついに金沢柵は陥落する(後三年の役終結)。
源義家は、この戦役を私戦と見なされ、論功行賞も行われず、更には陸奥守を解任された。結果として義家は、私財から恩賞を出すことになる、このことが却って関東における源氏の名声を高めた。
一方、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなり、清衡はもとの藤原姓に復し、奥州清原氏が幕を閉じるとともに、のちの「奥州藤原氏」としての繁栄の祖となった。
◎僧徒(僧兵)の強訴
*1081.3.5/ 興福寺の僧徒が多武峰を襲い、多武峰の僧徒が入京して強訴。
*1081.6.9/ 延暦寺僧徒が園城寺を焼き討ち。9.15にも再度焼き討ちする。
*1082.10.17/ 熊野の僧徒が神輿を奉じて入京、尾張国司による僧徒殺害を訴える。
*1087.12.29/ 宇佐神宮の神人らが、神輿を射た大宰大弐藤原実政を訴える。翌11月、実政は伊豆へ配流される。
*1092.3.6/ 興福寺の僧徒が賀茂荘に乱入、民家200余戸を焼く。
*1093.8.26/ 興福寺僧徒が近江守高階為家の非法報を強訴し、為家は土佐へ流される。
*1094.10.24/ 延暦寺僧徒が、美濃守源義綱が僧徒を殺害したと入京し強訴。迎撃した源頼治が、のちに佐渡に流される。
*1100.6.8/ 園城寺僧徒が、長吏(最高僧位)隆明の房舎を焼く。
平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、僧形の武装集団が横行した。京都・奈良などの大寺院に所属する武装集団で、僧衆、悪僧などと呼ばれたが、のちに「僧兵」と呼称されるようになった。これに対し、神社に所属する武装集団は「神人(じにん)」と呼ばれた。
藤原氏などの大貴族とともに、奈良や京都などの大寺院や神社は、寄進などで荘園などの私有地を拡大していった。そのような寺社は、社会が乱れるなかで、盗賊などから自主防衛する必要が生じるとともに、在地領主らの武装勢力や、国府などの権力を背景にする官吏など、さまざまな勢力と対抗する必要が生じてきた。
平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺と延暦寺は「南都北嶺」と呼ばれ、宗教的権威を背景とする強訴は、僧兵の武力以上の威力をもった。
興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿を担いで、洛中の内裏や院に押し掛けて強訴行い、白河法皇をして「心にままならぬもの、賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」と嘆かしめた。
朝廷や院の権威に基づく公家権力、新興の武家権力、そして宗教的権威を押し出す寺社権力、これらが相互に補完しながらも争うという形が、平安時代末期から鎌倉・室町時代と続いたが、応仁の乱で荘園制が事実上崩壊すると、武士の現実的な武力が優先する戦国時代となってゆく。
寺社勢力は戦国末期においても、織田信長、豊臣秀吉などに激しく敵対し続けたが、信長の延暦寺焼き討ち、秀吉の刀狩令などで、約五百年間続いたさしもの寺社勢力も、日本の権力構造から消えることとなった。
(この時期の出来事)
*1086.11.26/ 白河天皇が8歳の皇子善任親王(堀河天皇)に譲位し、上皇として院政を始める。(院政の開始)
*1090.1.22/ 白河上皇が熊野参詣に出発する。
*1091.6.12/ 源義家と弟義綱が争う。義家の入京が禁止され、田畑寄進も禁止される。
*1093.3.3/ 白河上皇が、諸国の荘園乱立の制止を内大臣藤原師通に諮問する。
*1096.6.-/ 田楽が大流行する。(永長の大田楽)
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